煉獄日記

目指せ天国。

結婚をしたいのかもしれない④

なんでこんなに毎晩毎晩、ちょっと気持ち悪いくらいの勢いでこの件について文章を書いているのか、自分でもよくわかっていない。ただ、今書いておかなければ、という気持ちと、今なら書ける、という気持ちに突き動かされるようにして書いている。

なんで今結婚の話を「書きたい」「書ける」と思うのか、いくつか理由は思い浮かぶ。30歳になったから、日本を離れたから、日本語を使う機会に飢えているから、など。あとは『結婚の奴』を読んで刺激されたとか。

でも、おそらく一番の理由は、ようやく私の中で愛犬の死への喪が明けつつあるということだ。

 

中学一年の時、受験に合格した「ご褒美」ということで犬をかってもらった。小柄なボーダーコリーで、桃と名付けた。やっと念願の「私の犬」を手に入れて、とても嬉しかったのを覚えている。

この桃が、ずっと私にとって唯一の家族だった。

「両親がいただろう」と言われるかもしれないけど、私にとって彼らは影響力の大きい身近な大人ではあっても、これまで書いてきたような私が求める「家族」とは程遠い人たちだった。問題を起こし、私の身を危険にさらし、その責任を押しつけてくるだけの存在。もちろん20年近い期間、衣食住を与えてはもらった。私が中高大と私立に通えたのも彼らがいたからだ。でも、そこに帰りたい家はなかった。そこは私にとって "home" ではなかった。

桃は犬なので、当然ながらお金を稼いできてはくれないし、私が病気になったって看病もできない。でも、あの子だけは、家族だった。

家に帰ればかならず待っていてくれる、私が落ち込んでいれば励ましてくれる、どんなときにも傍にいてくれる。どんなに体調が悪くても野生動物のようにそれを両親にひた隠す一方で、桃が相手であれば「つらい」と正直に話すことができた。そして桃は、もちろん飼い主の贔屓目かもしれないが、一生懸命に私を心配してくれた。エサをあげるとか、散歩に行くとか、そういう世話をすることで私は桃に生きていくための環境を与えていたけれど、そんなの本当にちっぽけなことに思えるくらい、桃が私に与えてくれたものは大きかった。

二十歳のころ働きすぎで本当にきつかったという話も書いたけれど、あの時に私がぎりぎり踏ん張れたのも、家に帰れば桃がいたからだった。桃を守るためならがんばれる。桃が生きている限り私は死ねない。まるで子どものために頑張るシングルマザーみたいな心境だった。

 

もう十分に老犬といえる歳になっていたころ、散歩中に突然桃が歩けなくなって道にへたりこんだことがあった。桃が犬であり、老犬であり、普通に考えたら私よりずいぶんと早く死んでしまうという現実を突きつけられてとても落ち込んだ。

当時わたしは定期的にカウンセリングを受けていたのだけど、そこでその出来事を泣きながら話した。桃が死んでしまうのが怖い。どうしたらいいかわからないし、自分がどうなってしまうかわからない。カウンセラーさんに、「もし桃ちゃんが死んでしまったら、どんな風に感じると思いますか?」と尋ねられた。ぼろぼろに泣きながらしぼりだした答えは、

「ひとりぼっちになっちゃう」

だった。

友達もいるし、なんなら彼氏もいるし、一応親だって生きている。でも、私がずっと「家族」だと思って心から信頼し頼りにしてきたのは桃だけだった。「ひとりぼっちになっちゃう」と口に出した時、自分で自分の言葉にすごく納得したし、なぜ自分が異常ともいえるほどに桃の死を恐れていたのかもわかった。桃が私にとって唯一の家族だったから。そういうことだった。

 

そして、その約一年後に桃は死んでしまった。15歳半、それなりに長生きをしたと思う。最後まで大きな病気もせず、苦しむ様子もなく、眠るように桃は死んだ。それが家庭犬としては十分に「良い死」であることを理解していたし、その最期に対して後悔もなかった。

それでも、苦しかった。「ひとりぼっちになっちゃった」と思った。

もちろんペットの死は誰にとっても苦しいもの、悲しいものであって、それを乗り越えるために時間がかかることだと思う。ペットロスはつらい。忌引きをもらいたくなる気持ちもわかる。

でも、あの時に私が感じていたのは、やっぱり少し違うものだった気がする。「桃のためなら」「桃がいるから」とあの子の存在を支えにしていた私にとって、この世界に自分を繋ぎとめている一番太くて大事な糸が切れてしまったような感じだった。死にたいとは思わなかったけど、生きていたいとも思わなかった。自分の現在や将来も含めて、すべてがどうでもいい気持ちになった。

亡骸はペット用の葬儀場で火葬してもらった。その遺骨さえもたまらなくいとおしかった。「骨になっても可愛いんだね」と変なことを思いながら、本当に桃はいなくなってしまったんだ、もう全部終わったんだ、と思った。私はもう何もがんばらなくていいし、がんばれないし、がんばりたくもない。そんな抜け殻状態だった。

 

桃の死からもうすぐ二年が経つ。

正直、まだまだ悲しい。この文章を書いていても気を抜いたら泣きそうだ。寂しい。すごく寂しい。ひとりぼっちだ、と今でも思う。

でも二年という月日の力は強いもので、その「ひとりぼっち」という感覚もそれほど悲壮感の漂うものではなくなってきた。ひとりでもこの二年間ちゃんと生きてきた。ひとりだからこそ、留学を目指すこともためらわなかった。そして現に今わたしはこうしてアメリカで生活できている。ひとりでも、桃がいなくても、私は大丈夫。この気楽さも、それはそれで悪くない。やっと、そう思えるようになってきた。

こう思えるようになってようやく、「やっぱ家族ほしいなあ」という気持ちがわいてきた。ずっとひとりぼっちは嫌だ。ひとりでもたぶん生きてはいけるけど、私は自分の家族や家庭を持つ人生をあえて選びたい。そっちの方が、楽しそうだから。だって、桃のいる生活は、本当に本当に楽しかったから。それにやっぱり、ひとりぼっちはちょっと寂しいしね。

 

もちろんいつかまた犬を飼いたいとは思う。でも、その犬が桃と同じような意味で私の家族になることはないだろう。思春期なうえに家庭も大荒れ状態で本当に不安定だった十代の時期。そのときにずっと、唯一の家族、最高の相棒としてそばにいてくれた桃に代わる存在なんて、得られるはずがないし、得られなくていい。次に飼う犬は、ちゃんと「ペット」として私の家族になってくれればいい。

それより私は、誰か人間のパートナーと家庭をつくりたい。「ただいま」とか「おかえり」と言い合えて、家事を分担したりできて、困ったときもある程度助け合えて、お互いが自立しながらも生活をサポートしあえるような、そういう人間のパートナーが欲しい。

そこに性愛がなくていい、むしろ無い方がいい、と思うのは、私にとって家族の原型が桃との関係だからなのかもしれない。それはよくわからない。でも、家に帰ってきた時に出迎えてくれる人がいることは、やはり幸せなことだ。それを私は知っている。

 

「家族」や「結婚」の話をするために、愛犬の思い出を語るのも変だなと思った。まるで愛犬の代わりに人間のパートナーを探してるみたい。そんなことはない、と思う。たぶん。よくわからない。だって、人間のことを「家族」だって思ったことないんだもん。

それでも、恋とか性とか "運命" とかそういうものがなくたって、お互いを大事にしながら長い時間をかけていけば、きっと家族になれるんだと、それを私に教えてくれたのは桃ちゃんだったから。これは私にとって、紛れもなく「家族」の話。