煉獄日記

目指せ天国。

揚げたてのとんかつと沖縄のギャル

とても悲しい訃報が届いた。

悲しいし、悔しい。
私はただのいちファンにすぎないので、何もできることなんてなかったし、悔しいといっても何がどう悔しいのかもうまく説明できないけど、悔しい。そして、悲しい。

 そうして体内に築かれた宗教が重なる誰かと出会ったとき、人は、その誰かの生存を祈る。心身の健康を願う。[中略]宗教が同じ人が心身共に健康で生きているというだけで、手放しそうになる明日を手繰り寄せられるときがある。その人が生きている世界なら自分も生きていけるのかもしれないと、そう信じられる瞬間が確かにある。

朝井リョウ『正欲』

オープンリレーションシップと呼ばれるような形の結婚しか受け入れられない、親になることに興味はあるけど母親にはなりたくない、性別とか性欲とか何もかもがどっちつかずのままでしかいられない、そんな私にとって、その存在は、その生存は、希望だった。小さな希望をかき集めながらでしか成り立たない生活のなかで、大きく光っている何かだった。

 

一時帰国中やその前に起こった色々のことを書き残しておきたいと、ハワイに戻ってからずっと思っていた。2年ぶりに文庫版で『正欲』を読み返して、このたった数年の間に自分の中にできあがってきた「網」のことを思い、ここに書き留めておきたいと思っていた。

 ずっと、自分を覗き込まれないよう、他者を登場させない人生を選んできた。その結果、生きることを推し進めていく力を自分自身で生成するしかなくなった。その状態が限界に到達したあの大晦日の日、初めて、自ら他者を求めた。
 一人目に伸ばした手は線となった。いま自分は、二人目、三人目に手を伸ばそうとしている。線は十字になり、さらに交差する。それを繰り返していけば、きっと網が出来上がる。手を組む人が増えれば、編まれる網はどんどん大きくなっていく。
 いま必要なのはきっと、どんな岸に立つ人でも見下ろせばその存在を確認できる、大きな大きな網だ。別の岸に飛び移りたいけれど距離があるからと躊躇うとき、もうどの岸からも降りてしまいたいと膝をつくとき、その足元に網が広がっていればどれだけ安心するだろうか。
 今の社会にはそれがない。だったらもう、自分で編むしかない。ひとりでは無理だから、誰かと。折角だから、もっと多くの人と。

朝井リョウ『正欲』

少しずつ編んできたその網に突然穴が開いてしまったみたいだ。穴、ではないのかもしれない。だって別に友達でも知り合いでもない。でも、その網の脆さみたいなものを思わずにはいられなくなる、そういう訃報だった。

足元を見ると不安になる。

私が編んできた網は、実は蜘蛛の巣くらい頼りないものなのかもしれない。
頑丈な網だって、それを切り裂こうとする悪意には耐えられないのかもしれない。

そういう不安が悲しみと一緒にむくむくと大きくなる。だけど私は生きていたいし、生きていると約束をしたから、足元の網をもう一度信じるためにこうして文章を書く。

 

 

「もう、もどれないかもしれないなあって、たまに思います」

沖縄の居酒屋で初対面の人と話しながらこんなことを言ったとき、不意に泣きそうになった。もどれないかもしれない。どこに?この会話では、「日本に」というような意味にとられたかもしれない。でもその時思っていたのは、そんな物理的に地図上で指をさせるような場所ではなく、もっと、時間的な、心理的な、そういうもの。

 

一時帰国の数週間前、大学院の友人2人を招いて家で食事会をした。夫が揚げたとんかつを皆で食べていたとき、会話の流れで代名詞を聞かれた。いつもみたいにへらへらとごまかしながら、「Sheに見えるならsheでいいんだ、別にそれでいい」と答えた。

「たとえば『トイレどこですか』って街中で尋ねたときに、『女子トイレはあっちですよ』って言われるようなら、なんかもうそう見えるならそれでいいかな、っていう諦めみたいなものがあって、あえて違うpronounを使って自分の性別を主張したいとは思わないんだよね」

言い訳みたいにそう付け足した。

すると、友人のひとりに「でも、社会的なプロテストとかそういうのはどうなんですか?もしそこで『ジェンダーレストイレはどこですか』って聞き返したら、その人も『あ、そういう人もいるのか』って思ってくれるかもしれない」と言われた。

そんなこと考えたこともなかった、と友人の言葉に感心しながら、それと同時に、そんなことを考えたこともなかった身勝手な自分が恥ずかしくなった。
そっかあ、そこまで考えてなかったなあ、とまるで思考の浅さが原因のように思わず言ってしまったけれど、それは深さというより視野の問題だ。たくさんの人がいる空間が苦手だから、なんて言って、ずっとアクティヴィズムとの距離を置いてきた。でもそうやって逃げ回っているうちに、自分の関心を狭めることに私は慣れきっていた。デモやパレードのような人がたくさん集まる場所じゃなくても、日常の一場面でできることがあるのだと、そんなことも忘れるくらい、自分のことばかり考えていた。

ジェンダーセクシュアリティの問題については色々研究書も読んできているから、知識はある。もちろん、日常の生活の中でできる抵抗がたくさんあるのだ、ということも「知識として」知っている。それなのに。それなのに、から言葉が続かない自分が、よりいっそう恥ずかしくなる。

 

そして、もう一人の友人にこう聞かれた。

「あなた自身は、本当は何がいいの?」

適当にごまかして終わるはずの会話が終わらなかった。真剣なまなざしでそう問われて、もうごまかせなかった。会話の相手ではなくて、自分をごまかせなかった。

「本当は、itがいい、ジェンダーを決めないと人間になれないのは嫌だ」

友人たちを目の前にしてこれを言うのは、誰が見ているかわからない(というかほとんど誰も見ていないであろう)ブログで書くのとはわけが違った。でももう嘘はつきたくなくて、何より、今目の前にいる2人なら大丈夫かもしれないという自分の中の期待が抑えきれなくて、少しだけ声を震わせながらそう打ち明けた。

私の言葉を聞いた友人は、この代名詞を他の人の前でも使ってほしいか、ごくプライベートな関係の中だけにしてほしいか、そこまで確認したうえで「わかった」と笑顔でうなずいてくれた。(みんなの前では使わないでほしい、とお願いした。)

カミングアウトではないけれど、何かそれに近いような、不思議な瞬間だった。少しだけ、体が軽くなったような気がした。

恥ずかしさと安心感とが交互に襲ってくる忙しい気持ちと共に、自分が今その会話を特に何の恐怖も感じずにできているということが嬉しかった。そう、私はあのとき嬉しかったのだ。今自分がいる場所を、その時間と空間を、ひとつの居場所のようなものとして認識できたその会話が、とても嬉しかった。

 

そして、夕飯も終わってだらだらと研究の話なんかをしていた時、私はふと思い出してミーカーの動画の話を2人にした。

ミーカーを演じるりゅうちぇるがいかに素敵かを熱弁し、「ぜひ見てみて!」と押しつけがましいくらいの勢いで薦めたのを覚えている。その2人には夫との「家族憲法」の話、つまり「不倫OK」とすることで一夫一婦制を乗り越える家族を作りたいという話もしていたので、りゅうちぇるがそのとき表明していた家族の形を心から応援しているという話もした。

友人との間にできた線と、りゅうちぇるの活動や生き方に私が感じていた線は、そこで交差して、私の心の中の「網」をまた少しだけ頑丈にしてくれた。その事実は何が起きたって変わるものではない。それは何か大きなものを前にしたときには脆い網なのかもしれないけれど、それでも、私はもう、そういう網を編めることを知ってしまったのだから。

 

もう、もどれないかもしれないな、と思う。

でも、もう、もどらなくてもいいのかな、とも思う。

いや、私はきっと、もう、もどりたくないんだ。

 

たくさんの希望をありがとう、ここまでたどりつく道の光となってくれてありがとう。
でも、生きていてほしかったな。

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