煉獄日記

目指せ天国。

結婚をしたいのかもしれない③

たぶん私は今から、これまでほとんど誰にも話したことのないことを書こうとしている気がする。少なくとも前のふたつの記事みたいに、ある程度一般化できて人を納得させたいという動機で書くものではない。

なぜ「結婚」の相手が女性の方がいいと思うのか。今日はその話。

 

最初から一言で言ってしまおう。私は男性が怖い。

どんなに貧弱な男性でも、ほぼすべての男性は私より腕力が強い。子どもとか、おじいちゃんとか、何かしらの障がいがあるとか、単純にめちゃくちゃ力が弱いとか、例外がたくさんあるのはわかっているけれど、私より腕力が強い男性が私の周囲にいる男性の大半を占めていることに変わりはない。あまりに野生的な発想で恥ずかしいけれど、「素手で戦ったら負ける」という事実が私を時折脅かすのは事実なのだ。

極端すぎると思うだろう。私も思う。でも、たとえば喧嘩をしてかっとなって声を荒げる姿を見たとき、物にあたる姿を見たとき、それどころか怒りのために拳を強く握りしめたり歯をくいしばる姿を見るだけで、私は身体がこわばって頭が真っ白になってしまう。どうしようもないのだ。その瞬間、頭の中に浮かぶのは「逃げなきゃ」とか「身を守らなきゃ」とか、一番マシなものでも「なんとかして落ち着いてもらわなきゃ」といった内容で、正直喧嘩どころではない。喧嘩という言葉でイメージされるような対等な言い合いを、私は男性相手にできたためしがない。

人が怒る状況が苦手、という点では相手が女性だろうと同じだ。でも、少なくとも女性相手、というかつまり腕力で勝てそう、またはそれなりに張り合えそうな人が相手であれば、どうにか(かなりの努力を要することに変わりはないけれど)冷静な思考は保つことができる。パニックを起こしたりはしない。

相手が怒る=殺されるかもしれない、なんて馬鹿けている。わかってる。そんなことは現実にはそうそう起こらない。しかし私は昔から怒りを表現することが苦手で、本当にこれまで生きてきて一度も「かっとなって」行動したことがない。だから「かっとなって」怒鳴ってしまう、心にもないことを言ってしまう、暴力をふるってしまう、相手を殺してしまう、そういう行為と感情のグラデーションがよくわからない。なぜ普通の人(と私には見える人)が怒りのために普段では考えられないような、本人にとってすら振り返れば「不本意な」行動をとってしまうのか、30年生きてきても全然理解できない。私にできるのは、相手がその怒りと行動のグラデーションの中で、きっとどこか「常識的」な範囲でブレーキをかけられる人だと信じることだけ。

だからこそ、いざとなったらこちらも力づくで相手を止められるかどうか、物理的に相手から逃げ出すことができるかどうか、そういう条件は私にとって重要だ。何より、喧嘩と呼ばれるようなある程度感情的でストレートな対話の形式が、時には相手との関係を深めるために意義のあるものだとわかっているからこそ、それが男性相手になったとたん恐怖心のためにできなくなってしまう自分がもどかしい。

 

怒りを表現することが苦手なのも、怒っている人が怖いのも、やっぱり自分の過去に深く関係しているのだと思う。人間相手にこそ手をあげなかったが、父はお酒を飲むとしばしば暴れた。朝起きたら壁に穴が空いていたり、椅子が壊れていたり、飼っていたうさぎがいなくなっていたりした。うさぎに何が起きたのかは、いまだに知らない。そして母は怒りの表現がストレートすぎる人だった。気に入らないことがあれば街なかだろうと人前だろうとかまわず怒鳴り散らした。母もまた、お酒を飲めばその態度が悪化するタイプの人でもあった。詳しくは書かないけれど、酔った勢いで(ときには酔っていなくても)私の存在そのものを否定するような言葉もなんども吐かれた。そして、そんな両親を見て、人様に迷惑をかけないように、「大変なこと」が起きないように、気を張っているのは常に私の役割だった。

家庭の危機というのは、子どもにとって命の危機である。実際には周囲の大人や、最終的には公的機関などが助けてくれるかもしれないけれど、子どもの視点から見ればそんなものはあってないようなもの。自分にとって身近な存在の人、つまり親が怒りだせば、何が起こるかわからない。「家族」がなくなってしまうかもしれない。私は生きていけないかもしれない。そういう恐怖心が、人が怒るという状況と私の中であまりにも密接に結び付いている。

もちろんそのトラウマにがんじがらめにされている訳ではない。家庭の外での経験が増え、物理的にも経済的にも自分一人でできることが増え、人の怒りが、たとえそれが自身の親のものであっても、自分の命をそう簡単に脅かしはしないことを私は知っている。ちゃんと頭ではわかっている。

それでも身体的に私よりも明らかに強い相手、つまり多くの場合男性が目の前で怒りだした時、やはり私の脳裏に即座に浮かぶのは圧倒的な恐怖心なのだ。何をされるかわからない。怖い。逃げなきゃ。そういうもので頭がいっぱいになってしまう。それが家庭のような閉じられた空間で起こればなおさらだ。

 

②でも書いたように、他人と暮らすということは「合わない」ことへの対処の繰り返しだ。その中では簡単にすり合わせができず、不機嫌になったり、議論が長引いたり、しまいには怒ってしまうこともあるだろう。あるのが普通だ。人間だもの。ね。

そして、その生活を続けるということは、そういうあまり喜ばしくないすり合わせも乗り越えていくということだと思う。相手の怒りにパニックにならず、状況から目を逸らさず、自分の意見もちゃんと伝えて、適当な妥協点を探っていく。必死になって相手をなだめることは、その場を収めることになってもすり合わせとしては全く意味がない。

 

この点については、私も結構努力してきたつもりだ。なんだかんだ2回も同棲を経験しているし、1回は婚約までした。(その婚約の件については今私の中で保留中。)もちろんどちらも相手は男性。恋愛関係にある男性。

お互いに対する好意を保つ努力は、そんなに難しくなかった。生活を支え合うパートナーとして、恋人として、気持ちの良い関係を基本的には築けていた。でも、何かしらどうしても分かり合えないことが出てきた時に正直な意見をぶつけ合うことはできなかったし、どちらかの機嫌が悪くて衝突してしまったときにも、私の心の中には恐怖と不満が溜まっていく一方だった。当たり前だ。相手が怖くて、何も言えないんだもん。

こんな風に言うと相手の男性がすごく暴力的だったかのような印象を与えてしまうかもしれないけど、そんなことはない。むしろ私が今まで付き合ってきた男性は皆穏やかな人だったと思う。でもそれが余計に、こんなに穏やかな人でも怒りを感じれば怒るのかと、より一層私を絶望させた。

怒りを感じたら人は怒る。言葉にするのもあほらしいくらい、当然の事。でもそれが今でも私にとっては、必死に頭で理解しないと忘れてしまいそうになることなのです。

結果的に相手への不満を私がため込み、どこかわけのわからないタイミングで私が爆発して、関係が終わる。その繰り返し。閉じられた関係と空間の中で怒りに触れて怯えるのにも、最終的に相手を理不尽に切り捨てて後味の悪い思いをしたりするのも、もう疲れた。

結婚するなら、どんなときも怯えたりしなくていい相手がいい。それが今の私にとって、女性だというだけの話。

 

十代の頃、両親の酒癖の悪さを年上の人にぐちったら「大人になってお酒を飲むようになればわかる」と言われた。二十歳を過ぎても、結局お酒は飲めなかった。怖かった。酔った勢いで、私が両親にされてきたのと同じように、誰かを深く傷つけてしまうのではないか。そう思うと、どうしてもお酒に口をつけることができなかった。今ではほんの少量なら飲めるけれど、「酔う」という感覚はわからないまま。

私にとって怒りの感情はこれと同じ。かっとなって何かをしてしまう人がわからない。自分がそうはなれないから。理解するために私も怒りをストレートに表現してみたらいいのかもしれないけど、取り返しがつかないくらい誰かを傷つけてしまうかもしれないと思うと、そんなこと怖くてできない。

お酒も怒りも、適量・適度であれば良いものみたいだけどね。その加減って、みんなどうやって学んだのかしら。トライアンドエラー、なの?