ままならないまのままに
夫と昔話をした。
二十歳のころ、離婚調停中の両親から逃げるようにして始めたひとり(と一匹)暮らし。大学から約40分かかる急行の停まらない不便な駅、そこからさらに徒歩15分もかかる小さな1Kのアパート。
現在の夫に告白されなんとなく付き合い始めた大学2年の春、「やっぱり元カノの方が大事」という理不尽な理由でふられた夏、それなのに「会いたい」と呼び出されては電車で約1時間の距離に住む彼のところへ週に2度も3度もふらふらと通っていたそのあとの半年だか1年の期間。
「会いにきて」と電話をかけてくる時点ですでに酔っていた彼は、私がマンションの入り口でオートロックを解除してもらおうとインターフォンを押す頃には寝てしまっていたことも少なくなかった。その時点ですでに終電がないこともしばしばで、そんな日は「あーあ」と思いながら始発の時間まで新宿をぶらぶらと歩きまわった。たとえ家に入れてもらえても彼は大抵すぐに寝てしまい、「まったくもう」と思いつつ夜が明けるのを待った。そして始発電車で家に帰ると、玄関の前に怒った顔でお座りをしている桃がいて、「ごめんね」と言いながら朝の散歩に行き、ひとりと一匹で仲良く朝ごはんを食べ、大学の講義やバイトへ出かけていた日々。
若かったな、と思う。
若かったというより、あの時の私たちはまだまだ幼く、あれは一種の共依存のようなあまり健全な関係でなかったことも今ならわかる。「そういうのやめなよ」と言ってくれる賢明な友人たちの言葉を聞き流しながら、その不健全な関係にすがることを必要としていた当時の私はふらふらと新宿へ通い続けていた。
今ではもう笑い話でしかない昔話。だけどその昔話を彼と夫婦となって笑うことになるとは、さすがにあの頃の私も予想していなかった。まさか結婚するとはねえ。
ちなみにその新宿へふらふら通う生活は、私に新しい恋人ができることで終わりを迎えた。なんてわかりやすい若気の至りとその終わり。
そしてそれから15年の間に、私はハワイで大学院生となり、夫は一度目の結婚と離婚を経験し、なんだかんだあって私たちは結婚し、今は二人でハワイ暮らしをしている。
そんな「馴れ初め」というにはあまりに断片的で素っ頓狂な物語を人に語るたび、現在「ふうふ」として暮らしている私たちしか知らない人たちからは「愛だねえ」なんて言われたりする。
愛が何なのかはよくわからないが、とりあえずこの15年間ずっと変わらず「元気でいてね、幸せでいてね」と思い続けていることは確かであり、「家族」だなという気持ちもこの3年半の間に少しずつ積み重ねてきた。世界はこれを愛と呼ぶんでしょうか?
向坂くじら『夫婦間における愛の適温』というエッセイ集を読んでいる。
その最初に収められている「わたしはね、もう、これでいくのよ」という一編の中に書かれていた著者と義母とのエピソード。
「いや、わたしがあんな風に心配してたら、奥さんとしてはいやだったりするかなと思って」
「いや、ぜんぜん、そんなことないですよ」
「本当? わたしが◯◯くん(夫)のことが大好きでも、いやじゃない?」
その瞬間、笑ってしまいそうな、それでいて涙が出そうな、なんともいえない気持ちでいっぱいになった。暗がりで、義母の瞳が一際きらめいて見えた。わたしは息を吸いこんで、答えた。
「いやなわけないじゃないですか! そんなの、いやなことなんて、ひとつもないじゃないですか!」
わたしたちはしばし微笑みあい、夫の運転で近づいてくる車のブレーキランプに照らされていた。義母が、ありがとう、と言って、わたしの腰に手をまわす。それで図に乗って、もうひとこと付け加えた。
「おかあさんは、わたしが、◯◯くんのことが大好きでも、いやじゃないですか?」
「いやじゃない。すっごく、すっごくうれしい!」
夫の車に乗り込んでからも、わたしはしばらく上気していた。下戸なのでお酒は飲んでいなかったけれど、頬が熱かった。なにか特別な瞬間を過ごしていたような気がした。
向坂くじら『夫婦間における愛の適温』 (p.10)
頼りない息子を心配し、その心配が息子の「奥さん」である著者を傷つけるのではないかと心配する義母。
世間一般においてはいわゆる「嫁姑問題」を引き起こす原因にもなる息子/夫への愛情が、著者と義母をむすびつける瞬間を描いたこの場面。
「これだ」と思った。
何がとははっきりと言えないけれど、このシーンを読んで「これだ」と確信のような気持ちを抱いた。
私と夫との間にある感情が「愛」かどうかは知らない。そうであったらいいなと思ったりもするけれど、その感情を確信するには私はあまりにも「ふつうの家族」というものを知らなさすぎる。だけど、この場面で著者と義母が交わし合う「大好き」という感情や「すっごくうれしい!」という言葉は、「これだ」と納得のいく何かのように思えた。
結婚したころの私ではきっとわからなかった「これだ」の感覚に驚きと嬉しさで少し泣きそうになりながら、私もまた大きく息を吸いこみ、そしてこのブログを書き始めた。
夫の母親、つまり義母のことを私は「おかあさん」と呼んでいる。
普通に考えればそれは「お義母さん」を意味しているのだけれど、私がその言葉を発するとき、それはいつだって「〇〇さん(夫)のお母さん」の省略形だ。友達の母親を「〇〇ちゃんのお母さん」と言う代わりに「お母さん」とだけ呼ぶような、そういう感覚。
自分の生まれ育った家族も「家族」なのかよくわからない私にとって、「義理の家族」というものは結婚して数年経った今でも不思議な存在である。夫の育った家で彼の両親と一緒にテレビを観たりしていると、地球に迷い込んだエイリアンのような気持ちになる。それなのに思わずリラックスしている自分に気づくときもあり、そんな時はその状況が誰か知らない人が作った映画のように見えてくる。私の人生にあまりにも無縁だったものに囲まれて、どうしようもなくそわそわしてしまう。きっとこれからも、彼らはあくまで「夫の家族」であり、義理だか法的だか本物だかはともかくとして私が彼らを「自分の家族」と思うようになる可能性はとても低そうだ。
それでも私は義母のことがとても好きだ。聡明な人というのはこういう人のことを指すのだろうな、と思う。私と夫は「お付き合い」どころか親同士の挨拶的なものもすべてすっ飛ばして婚姻届を出したのできっと初めは懸念も疑念もありまくりだっただろうに、義母はそういうものを一切見せずに私を迎え入れてくれた。慎重かつ大胆に、他人行儀でも馴れ馴れしくもない絶妙な距離感で接してくれる義母に対して、私は感謝と同じくらいの尊敬を覚えている。
というか、義母だけでなく夫の家族のことは全員けっこう好きだ。年に一度、一時帰国の時に顔を合わせるだけの関係だけれど、そのわりに私は夫の家族のことがかなり好きだと思う。
だから今年の夏なんて、夫の実家へ行ったときに「ただいま」と言いたくなってしまった。でもその瞬間に照れと恐怖が混ざり合ったようなおぼつかない気持ちがわいてきて、結局わたしは「お嫁さん」のような顔をして「おじゃまします、今年もお世話になります」ともごもご口を動かすはめになる。
こんな不慣れでぎこちないけれど温かい気持ちを持てるようになったのは、もちろん彼らがとてもいい人たちで、私を「家族の一員」として温かく迎え入れてくれたから、ということも大きい。
でも、『夫婦間の愛の適温』のこのエピソードを読んで、私が夫の家族が好きなのは、彼らが夫のことを「大好き」だと知っているからかもしれないと気づいた。
私はこの15年の間、夫に「元気でいてね、幸せでいてね」と思い続けてきたけれど、「おかあさん」や「おとうさん」や「おねえさん」たちは私よりもずっと長い間、そしておそらく私が抱いてきたのよりもずっと強い気持ちで「元気でいてね、幸せでいてね」と夫のことを見てきたのだと思う。親子愛とか兄弟愛とか友情とか恋愛とか、そういう様々な「好き」の最大公約数みたいな部分、私が夫の家族と共有しているのはきっとそういうものなのだろう。
そういう意味で言えば、私は夫の一度目の結婚相手のこともけっこう好きだ。LINEで挨拶程度のやり取りをしただけで直接会ったこともない相手なので「好き」というのも変な感じがするけれど、私はだいぶ前から、それこそ夫が彼女と結婚していたころから、彼女のことが漠然と好きだ。それはきっと、一度目の結婚をしていたときの夫が幸せそうであり、その幸せの土台として彼女の存在があったことを私は遠くから感じ取っていたからなのだろう。
結婚するときに作った「家族憲法」の序文にこんなことを書いた。
法が夫婦に与える特権的地位を私たちは疑う。私たちの結婚が、これまで私とあなたを育て、支え、愛してくれた人々の価値を減じるものであってはならないと私たちは信じる。私たちが家族であるように、彼ら彼女らもまた、私の、あなたの、そして私たちの家族であり、その各々の関係性に優劣をつけることを私たちは良しとしない。
序文の中でもこの部分は特に、ありったけの怒りをこめて書いたことを覚えている。もう二度と婚姻制度や法や常識に私の「家族」を壊されてたまるか、という強い意志がこの一節にはみっちりと詰まっている。
だけど今この序文を読み返すと、結婚当初とは全く違う風景が見える。夫への「大好き」を共有できる夫の家族、彼らと「大好き」を共有できることを嬉しく思う気持ち、そういう具体的な人の顔や関係性が私の守りたいものとして心に浮かぶ。
それは私が守りたいものであり、だけど、私の意志だけでは守りきれないものでもある。その不安定さを引き受けながらより良い「結婚」を目指し続けることが、今の私が一番望んでいることなのかもしれない。
ままならないなあ、と苦笑いをしながら、「だけど欲しいものは欲しいし大事なものは大事なの!」と叫ぶ心の声にも耳を傾ける。ままならないなりに、知識や経験を総動員して自分のできることをやっていこう。そう思える対象ができたというだけで、今のところこの結婚は大正解だったような気もしている。
新宿にふらふらと通っていた若気の至りを夫と笑いながら話しているときにふと思い出した。
インターフォンを押しても返事がなくて彼のマンションの入り口で途方に暮れていたとき、私は「あーあ」と思いながらも、「誰かが来てくれるという安心感とともに寝付けたのならそれでいいか」と、何かとても前向きな気持ちを心の芯の部分で感じていた。あの時の関係は確かに共依存のような危ういものではあったけれど、「元気でいてね、幸せでいてね」という今も続く気持ちの基礎を作ったものであることは間違いない。
そのころの思い出を今こうして笑えるのなら、今の結婚につながる何かとして認めることができるのなら、それはそれで正解だったのかな、と三十代半ばを生きる私は二十歳の私を肯定してあげたくなる。
人と人との関係や「家族」というものについて、そのあまりにもままならない性質について、この1ヶ月ほどのあいだにたくさん悩み、戸惑い、考えた。
「家族」をデザインするというこの結婚がどこへ行くのか、その行く末に希望と同じくらいの不安も今は抱えている。「だけど」と思う。「それでも」と思う。
私たちの「愛の適温」がいつかどこかに見つかりますように。
沖縄から「さよーならまたいつか!」
日本時間で今日は6月23日。慰霊の日だ。
アメリカと日本の軍人に多数の犠牲者が出ただけでなく、沖縄県民の4人に1人が亡くなったと言われる沖縄戦。そのような苛烈な戦いを記憶し、犠牲となった人たちへの祈りをささげ平和を願う日として慰霊の日は制定された。
慰霊の日は沖縄県の人々にとって一年でもっとも重要な日のうちのひとつだが、その存在は沖縄県外ではあまり知られていない。恥ずかしながら、私も沖縄出身の夫と結婚するまで「慰霊の日」という言葉を聞いたことがあるくらいで、それが何月何日で何を記念し何をする日なのかはよく知らなかった。
きっと今日も平和祈念公園で行われる戦没者追悼式には人々が集まり、戦没者の名が書かれた平和の礎を前に祈りを捧げ、沖縄のニュースではその様子が流れるだろう。
そしてその一方で、沖縄を「日本のハワイ」のような美しい旅行先として思い描く本土の人々は、今日も6月22日や6月24日と変わらぬ一日を過ごすだろう。
これまで慰霊の日に沖縄にいたこともない私にはこれ以上詳しいことは語れないし、語る資格もないと感じる。でも、そのような沖縄の歴史に関連して、米津玄師「さよーならまたいつか!」のMVについて最近考えていたことを書いておきたい。
「さよーならまたいつか!」はNHKの朝ドラ『虎に翼』の主題歌として、もしかすると日本国民がこの数か月で一番頻繁に耳にしている曲かもしれない。私もどうにか観る手段を確保して毎日ハワイから『虎に翼』の放送を楽しみにしている。
フェミニスト的なメッセージをはっきりと打ち出す『虎に翼』がドラマとして素晴らしいことはもちろんだが、オープニングで流れる「さよーならまたいつか!」とそのアニメーションはドラマのテーマを見事に表現している。
TBSドラマ『アンナチュラル』の主題歌「Lemon」や、映画『君たちはどう生きるか』の主題歌「地球儀」などを手がけてきた米津玄師の歌は、どちらかというとダークな印象というか、暗い心のうちをじっと見つめるような歌が多い。
それに比べると「さよーならまたいつか!」は曲調も明るく、歌詞も苦しい現実の中に未来への希望を見るような内容になっており、その歌い方もとても軽やかな印象を与える。米津自身もインタビューで「良くも悪くもさらっと流れていくようなもの(中略)毎日食えるものというか、軽やかなものを作るべきだろう」という思いがあったと述べている。
この曲の何が沖縄やその歴史と関連するというのか?その答えはこの曲のミュージックビデオ(以下MV)にある。
「『虎に翼』の曲」というイメージが強くあまり話題に上がることもないが、「さよーならまたいつか!」のMVは沖縄県にあるA&W牧港店で撮影されている。
1番のサビの部分で米津がピースサインをするとき、そのバックには「SINCE1969 MAKIMINATO」というネオンの文字が光る大きな看板が映る。そこには第二次大戦中のプロパガンダを思わせるタッチで、いかにもアメリカ人ウェイトレスといった雰囲気の女性が描かれている。
日本におけるA&W2号店である牧港店は、まだ沖縄が米軍占領下にあった1968年に開店。(看板には1969と書かれているが、A&Wの公式ウェブサイトには1968と書かれていてその理由やどちらが正しいのかは不明。)
「牧港」という地名を聞けば、沖縄について学んだことがある人なら「牧港補給地区」を思い出すかもしれない。キャンプ・キンザ―とも呼ばれる牧港補給地区からA&W牧港店までは車で10分ほどの距離。ちなみにA&Wの沖縄1号店に屋宜原が選ばれたのも、嘉手納基地からの近さが理由のひとつだったようだ。車の中で食べるという独特なドライブスルー方式も、1960年代の沖縄におけるアメリカ人社会で車文化が広まっていたからだそう。
ファストフード文化の先駆けとして今でも「エンダー」と呼ばれ沖縄県民に愛されているA&Wだが、その歴史は1972年まで続いた米軍による沖縄占領、現在でも続く基地問題と切り離すことができない。
先に挙げた「SINCE1969 MAKIMINATO」の大きな看板が1番のサビという曲の重要な部分で正面から撮られていることからもわかるように、このMVの中でA&Wはアメリカ的空間の象徴となっている。
ファストフード店ならばよくあることかもしれないが、店内の様子が映されてもそこに「日本らしさ」や「沖縄らしさ」と呼べるものは見当たらない。店舗の外側を見ても、そこにあるのは「BURGERS」「FRIES」「FLOATS」といった英語で書かれた商品名ばかり。
さらに、2番の冒頭ではA&Wの楕円形の看板の下に「ALL AMERICAN FOOD DRIVE IN」の文字が赤いネオンで光っている。ただでさえ目立つこの文字は、「AMERICAN FOOD DRIVE IN」の部分がたびたび点灯することでさらに目を引く。
もちろんこれは意図的に作られたセットではないとはいえ、メニューや案内板等に書かれていてもおかしくない日本語はこのMVの中で読めないほど小さくなっているかピントが合っていないかのどちらかだ。
そもそも、このA&W牧港店を舞台に用いるという選択自体が、「アメリカ的空間」をそこに創り出す行為であり、そこで「沖縄」の影はかぎりなく薄い。
では、そのアメリカ化された空間で何が起こっているのか。
曲の始まり、米津はバスルームの中で大きく割れた鏡を覗き込んでいる。当然ながら鏡に映る彼の顔にも複数のヒビが入っている。
逆再生によって米津がバスルームから店内へと出てくると、そこでは暴動が発生している。黒づくめの客たちがバッドや椅子を振り回し、窓ガラスを割って侵入し、床にゴミやらガラス片やらを散乱させている。
しかしよく見ると、窓ガラスから少し離れた席には椅子に座ったままその様子を眺めている客のグループがおり、入口近くには「もっとやれ」と言わんばかりに楽し気に両腕を挙げている二人組がいる。店内を破壊する彼らの行動は、まるで盛り上がりすぎたパーティーの成れの果てのようだ。
沖縄で「暴動」といえばコザ暴動などが思い浮かぶが、それらは米軍支配の横暴に耐えかねた沖縄県民による命がけのプロテストだった。しかしこのMVの中にあるのは、それとは全く異なる見世物のような破壊行為だ。
さらに逆再生が繰り返され米津が店の外に出ていくと、窓から見える店内にはすでに人の姿が消えており、窓の外には野次馬が集まっている。
背後に映るパトカーから野次馬の前に立つ数名の男性は警察官だと推測できるが、彼らはまるで音楽に合わせて手を振っているかのようにただゆらゆらと左右に揺れている。この場面で警察官たちは、市民を守るでも犯罪者を捕えるでもなく、「アメリカ的空間」の内部で起きた暴力を一般市民から隠し、彼らをその空間から遠ざける境界線の役割を担っているにすぎない。
A&Wという沖縄のアメリカ化を象徴するような空間で、人々はうっぷんを晴らすように好き勝手に暴れ、本来であれば治安を維持するために働くはずの警察官はその空間を市民から隠そうとする。
この関係はまるで戦後から現在まで続く沖縄と日本政府の関係のようだ。米軍基地の存在によって引き起こされる沖縄内部での問題は、警察に象徴される日本の公権力によって本土の人々から遠ざけられ忘れ去られ、「青い海・青い空」といった形で安全に切り取られた一部分だけが提示される。
曲が2番に入ると、暴徒と思しき人々は去っていき、店内の秩序は回復される。米津が2回目に入口から店内に入ってくるときには客の賑わいさえ見られる。
しかしその一方で、外に出ればA&Wの敷地外で次々とあがる細い火柱が見える。まるでA&Wの店内にあった暴力が外部の空に移し替えられたかのような不穏さがそこには漂う。
暴力の痕跡がすべて消えたわけではないと示すように、「人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る」と歌う米津が覗き込む鏡の中には、まだいくつかひび割れが残っている。「地獄の先」に見えるはずの「春」は、まだ不完全な形でしかそこに存在しない。
では、この「アメリカ的空間」であるA&Wの店舗の内外を回遊するように動き回り、割れた鏡を覗き込む米津自身は何者なのだろうか。
私は彼が「沖縄」そのものを表現しているのではないかと考える。「アメリカ的空間」の内部であり外部であり、ひび割れた自己しか見ることができない現在の沖縄。それがこのMVにおける米津玄師自身ではないだろうか。
1番のサビの部分で彼は、野次馬、警官たち、そして割れた窓ガラスに背を向けてカメラを正面から見据える。画面の上半分は先ほど説明した「SINCE1969 MAKIMINATO」の看板が占めており、視覚的にも「アメリカ」が上から覆いかぶさっているような構図の中で、米津は「瞬け羽を広げ 気儘に飛べ どこまでもゆけ」と歌う。空を占める「アメリカ」を挑発し、その先へ行けと彼は歌っているのだ。
さらに「100年先も覚えてるかな 知らねえけれど さよーならまたいつか」と米津が見せるピースサインは、今は失われてしまった平和な空を思い出せと100年前の世界から訴えかけるかのようだ。
ラストの大サビで再び外に出た米津が「今羽を広げ 気儘に飛べ どこまでもゆけ」と指さす空にも、依然として炎が幾筋もたちのぼっている。
A&Wの敷地内だけを見れば平和が戻ったかのような場面でも、「羽を広げ」飛び立とうと思えば、その空にはまだまだ危険が満ちている。それでもなお彼は「どこまでもゆけ」と力強く空を指さす。
そして「生まれた日からわたしでいたんだ」と最後に米津が再び鏡を覗き込むとき、その鏡からはすっかりヒビが消えている。その傷のない姿こそ、現代を生きる私たちが目にすることのできない、彼が「知らなかっただろ」と我々に問いかける沖縄の姿だ。その姿を取り戻すため、「どこまでもゆけ」と彼は我々に訴える。
ヒビのない鏡に向けて米津は「さよーならまたいつか!」とウインクし、その「またいつか」が来る時まで我々に一時の別れを告げるようにしてこのMVは終わる。
『虎に翼』は1930年代から物語が始まり、ほぼ「100年先」の現代からその過去を振り返るよう視聴者を促す作品となっている。その100年の間に、女性は弁護士になり、議員になり、裁判官になり、少しずつその権利を拡大し、より良い社会を実現してきた。一方で、寅子が直面する数々の「はて?」は、100年前と現代の女性差別が地続きであることも強調する。
その主題歌のMVが沖縄を舞台として作られたこと、そこで暴力とその部分的な隠ぺいが描かれたことは、私たちに何を伝えているのだろうか。
店の内部で暴力が蔓延する1番、店の敷地の外で空に炎が満ちる2番という二段階の変化に、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる戦後沖縄の土地支配と、本土復帰の後に騒音や墜落事故によって空から沖縄を危険にさらし続ける米軍基地問題という大きな歴史の流れを私たちはこのMVから読み取ることができる。
しかし、逆再生を頻繁に用いるこのMVの構成は、その時系列を意図的に混乱させる。地上での暴力と空からの暴力、沖縄の土地や人に対する直接的暴力と、沖縄に置かれた基地が支えるアメリカの世界における軍事行動。それらは前者から後者へと直線的に移行するようなものではなく、このMVの時系列のように、前後し、繰り返され、はっきりとした始まりも終わりも見えないまま現在まで引き延ばされている。
『虎に翼』で描かれる女性差別の問題と同様に、沖縄に対する差別や暴力も戦前から現代にいたるまで形を変えながら繰り返されているのだ。
加害者はアメリカだけではない。「アメリカ的空間」とされてしまった沖縄を人々の目から隠そうとする日本政府も、安全な場所から「野次馬」として覗き込んでいるだけの本土の人々も、その構造の一端を担っていることを忘れてはならない。
「さよーならまたいつか!」のMVが、沖縄におけるアメリカ軍の存在を象徴するようなA&W牧港店で撮られたことはただの偶然かもしれない。
たとえそうだとしても、この映像が描くものを考えることによって、「またいつか」取り戻すべき沖縄の姿を想像しながら、沖縄戦の犠牲者に祈りを捧げる慰霊の日を過ごせればと思う。
【追記(2024年7月20日)】

今年の夏も沖縄に一週間ほど滞在している。
せっかくなのでA&W牧港店に実際に行ってみて、MVの舞台を確認してきた。上の写真はそのときに撮ったものだ。
少々薄暗いが、写真の下部、窓ガラスの下の部分に「OKINAWA」と書かれているのが見えるだろう。いろいろなネット上の画像を見る限り、数年前に行われた店舗の改装以降、この「OKINAWA」の文字はずっとここにあったようだ。おそらく「さよーならまたいつか!」のMV撮影時にも。
しかし、MVの中で建物のこの部分は映されているが、そこに「OKINAWA」の文字はない。つまり、撮影後の編集でこの文字は意図的に消去されたと考えるのが妥当だろう。
私は上の論考で「A&Wはアメリカ的空間の象徴として用いられている」という主旨のことを書いたが、この意図的な「OKINAWA」の削除はその解釈を裏付けるものになったと言えそうだ。MAKIMINATOという地名は沖縄のものだけれども、それは「MAKIMINATO」であって「牧港」ではない。米軍/アメリカというフィルターを通してのみ存在する空間がこのMVの中には作り上げられていた。
そのほかにもかなり意図的に日本語や日本あるいは沖縄を連想させるものを消し去っているということが現地に行ってみるととてもよくわかり、それは面白い発見だった。
MV撮影地を訪れるというミーハーなことをしたのは人生初めて。
この大きな看板がしっかりと映るような地点には自撮り用のスマホスタンドも設置してあり、すっかり観光名所化していた。せっかく現地を訪れたので、友人たちと共にこの看板の前でピースサインの写真も撮った。そういうベタで恥ずかしいことを楽しむのも時には悪くない。
ちなみに私は炭酸飲料が飲めないので、ルートビアは一緒に行った夫のものをちょこっと飲ませてもらい「やっぱり無理」となっただけで、あとはバーガーとオレンジジュースを楽しみました。
Xになったよ
今年の初めにスマホをiPhone SEからPixel 7に買い換えた。
初めて使うAndroidのスマホは、私が不慣れなだけかもしれないけれど、いまだに手に馴染まない。かゆいところには手が届かないし、不便とまでは言わないけれど便利とも言い難い。
そのもどかしさに拍車をかけるように次々とやってくるアプリのアクセス問題。機種変更をしたならSMS認証をせよ、SMS認証のためには日本の電話番号が必要です、うんぬんかんぬん。めんどくさい。
で、そんなこんなでとにかく身分証を更新しなければならなくなった。
私はマリオカート以外の車は運転しないと決めているので免許も持っていないし、パスポートは身分証としては意外と役立たず。そういう場合アメリカではState IDというものが必要になる。すでにState ID自体は持っているんだけど、今の家に引っ越す前に作ったものだったので住所変更の手続きが必要。アプリケーションを書いて、オフィスに持って行って、そこで書類確認と写真撮影をして、カードは後ほど郵送。
写真撮影まで終わらせた後には紙のカードが当面の身分証として発行される。名前、生年月日、有効期限、身長、体重、目の色、性別、住所など個人情報がみっちり詰まったペラペラのカード。クジラのTシャツにピンクの髪の毛でこの日写真撮影をしてしまったことは、ほんのちょっと後悔している。
そのペラペラの仮カードを見ていたら、Genderの欄が "X" になっていた。
なっていたというか、もちろん私がそれで申請したんだけど。
前回初めてState IDを作った時もアプリケーションでGenderの欄は "NOT SPECIFIED" を選んだ。 "MALE" と "FEMALE" の下にある、 "NOT SPECIFIED"。でも書類を受理される過程で気がついたらGenderはFEMALEとなっており、出来上がったカードのGender欄にはFの文字。「ふぅん」と思ったけれど、そうは言ってもパスポートの性別欄だってFemaleだし、まあ仕方ないのかなとそのままにしておいた。
もう何年前からだろう。性別欄に三番目の選択肢があればそれを選び、男か女かの二択であれば不要な時はうっかりさんのふりをして空欄のまま提出する、そういう選択をするようになったのは。いや、たとえ三番目の選択肢があったとしても必要がなければ空欄にしてたか。明確な理由があるわけでもなく、でもそれが「なんとなく正しい」気がしてそうしてきた。
アメリカで暮らしている今の生活においてはパスポートよりも身近で強力な身分証であるState IDが、私のジェンダーは「X」だと言っている。ふぅん。
感動するわけでもなく、ものすごく嬉しいというわけでもなく、最初のカードに "Gender: F" と見た時と同じくらいに「ふぅん」ってなっただけだった。ちょっと拍子抜けしたような、予想通りのような、まあとりあえずしばらくこれで生きてみるか、みたいな感じ。
アメリカの博士課程での5年目が終わった。5年目の終わりにようやく二つ目の大きな試験を乗り越えてABDというやつになった。All but dissertation。博士論文を書き始めていいよ、という博士課程の最終段階。
本一冊分くらいの長さとそれなりのクオリティが求められる博士論文を書くのにこれからどれくらい時間がかかるのかはまだわからないけれど、できれば2年、遅くとも3年以内には書き終えたいと思っている。2014年に日本で修士課程に入ってからもう10年、ようやく就職する未来が見えてきた。
就職ということはその前に就職活動があるわけで。就職活動ということは普段の半ズボンにアロハシャツみたいな格好ではさすがに良くないだろうから、もう少しちゃんとした格好をしなければならない。2年前に買ったメンズスーツはそれからだいぶ体重が増えてしまったせいでもはや着られないので、次の一時帰国で新しいスーツを買おうかと考えている。せっかくの大事な機会だし、オーダーメイドのスーツを作っちゃおうかな、なんて。
女性的な体型でもフィットするメンズスーツを売りにしている会社はいくつか知っていて、そのうちのどこかで作ろうかと思っている。それなりに値もはるけれど、まあ今回はそれくらいの贅沢をするのも必要経費のうちということにしたい。
以前恋人から「何か身体を変えたいとかそういうことは思わないの?」と聞かれたことがある。「その選択肢はないな」と即答した。
胸のところにくっついている「おっぱい」と呼ばれるものがちょっと邪魔だなと思うことはあるし、どう頑張っても腰骨から下に丸みを帯びていくヒップも好きじゃないが、それ以上にとにかく痛みという痛みをできるだけ避けて生きていきたいという思いがべらぼうに強い。とにかく弱っちくてやる気のないこの身体のせいでいっつも不調や痛みがついてまわる人生を送っているのだ、これ以上のリスクはできる限り避けたい。
だからちょっといいスーツをオーダーメイドで作って、「まあこれでいいか」の気持ちを少しずつ大きくしながら生きる方を私は選ぶ。
これからもpronounを聞かれれば、苦笑いしながら「sheでいいし、他のがよければ何でもいいよ」と適切な間よりも0.3秒くらい遅れて答えていくだろう。投げやりな気持ちでもなく、無関心というわけでもなく、「まあなんでもいいよ」と心から思う。まあなんでもいいよ、私の性別がよくわからなくても、私は特に困らないからね、と。
あと1ヶ月と少しで35歳になる。その数字を思わずまじまじと見てしまうくらいには実感が湧かない。それでも約35年分のいろいろを積み重ねて、今ここにXのABDとして存在している私がいる。
自分の下の名前も好きじゃないが、ここまで生きてきた間にこの名前で呼んでくれた人たちの声がある。そして、自分の(この「女性的な」と形容するしかない)体型だって好きではないが、(多くの場合それが女性的であるということを必要条件として)私をその身体を含め恋愛対象として、あるいはもっと単純に性的対象として見てくれた人がいる。
そうやって35年の間に様々な形で他者から受け止められてきた経験が、今の私にとっては一番大切。それは、私が私自身をどう思っているかよりも、ずっとずっと「私」の輪郭を形作っているもの。なんだかよくわからないXの身分証と一緒に、これからも私は「私」を決定する権利を放棄しながら生きていく。
とりあえず、早くABDじゃなくてPhDになりたいな。だって、Mr. とか Ms. とか Mx. とか色々あるけど、博士になれば Dr. が使えるからね。性別より学位が優先されるその歪さが、今の私が一番欲しいもの。どうせならPhDを持ってる人だけが使えるpronounもあればいいのに。Sheでもtheyでもなくて、deeみたいなドクター専用代名詞。
この夏は1ヶ月半ほど日本に滞在する。北海道に3週間、沖縄に1週間、東京に3週間。北に南に慌ただしい。
少しだけ終わりの見えてきたハワイ生活とそれから先のまだ何一つ決まっていない将来を考えたり忘れたりしながら、この夏は図書館の古い資料に埋もれて100年前の人たちを思っている予定です。
ひらいて、ひらいて
この夏に恋人ができた。もちろん夫とも今まで通り楽しく暮らしている。
恋人ができたことについて、夫と恋人という2人のパートナーを持つ生活について、モノガミーをこえる家族という理想に少しだけ近づいた今の私の「家族」について、なにか書きたいと思いながらも、様々な思いが頭の中でこんがらがってなかなか何も書けなかった。
というか、今でも頭の中はこんがらがったままで、この下書きも書いたり消したり何度もしている。書きたいことが多すぎるのか、今の状況や感情を語る言葉が少なすぎるのか。どっちでもないような、どっちでもあるような。
最近、『少女革命ウテナ』のアニメと映画を観た。
有名な作品だから名前は聞いたことがあったけれど、観るのは初めて。「王子様」になりたいという主人公ウテナの願望や家父長制批判のプロットはいくらでも深読みができる一方で、「決闘」シーンのたびに繰り返される音楽や整然としているようでどこか歪な画面構成は観ているだけで気持ちよくなる。子どもが観ても大人が観ても面白く、子どものころに観ていても大人になってから見返したくなるような細部を多分に含んだ物語。テレビで放送されてから25年以上経った今でも根強いファンがいることに納得のいく、とても良い作品だった。
だけど、そんな良い作品だからこそ、最初の数話を観てまず私が思ったことは「初めて観たのが今でよかった」ということだった。
主人公のウテナは、幼いころに出会った「王子様」に憧れるあまり自分も王子様になろうとする女の子。物語の後半では、「女子」である自分と「王子様になりたい」という願望の間で葛藤するウテナの姿も描かれるけれど、最初の何話かでのウテナは「女子の王子様」という地位を確立した学園内の人気者として登場する。
そのようなウテナのキャラクターを、今の私は素直に「いいな」と思えるけれど、もし私がまだ10代だったら、女子校に通っているころだったら。あるいは、まだ恋人と付き合っていなかった半年前の私だったら。わたしは、何を思っていただろうか。
恋人はときおり冗談めかして私を "my prince" と呼ぶ。
「わたしは王子様って柄じゃないよ」と笑いながら、気恥ずかしいような、くすぐったいような、あたたかい気持ちになる。
思春期の女の子ばかりが寄せ集められた女子校という空間では、自然と「王子様」のような立ち位置の子が出てくる。中高6年間女子校に通ってわかったことのひとつが、私は「王子様」になれるタイプではないということだった。
「王子様」は必ずしもボーイッシュな子とは限らない。運動ができる爽やかな人気者タイプの子だったり、逆にちょっとミステリアスな雰囲気の子だったり。思い返してみても「王子様」的な立ち位置にいた子たちのはっきりとした共通点はわからない。あえていうなら、「なんとなく魅力的」ということくらいだろうか。
彼女たちの魅力をうまく因数分解できないまま、それでもその「何か」が私に足りないことだけは明らかだった。それは努力でどうにかなるような性質のものでもなかった。そもそも、努力をするだけの勇気も私にはなかった。
それは仕方のないことだ、周りのみんなのことは大好きだ、だからこれでいいんだ。そう思いながら、忘れたことも忘れるくらいに「王子様」になりたい気持ちは忘れることにした。「気楽に話せる男友達」くらいのポジションにいられればいいや、と思うことが精いっぱいの妥協点だった。
大学に入って共学の世界に出ていった友人たちは、ほんものの「男の子」の「彼氏」を作り始めた。
相変わらず女友達と男友達の中間のような微妙なポジションでふらふらしていたわたしは、彼氏ができないとか、彼氏とうまくいかないとか、彼女たちの恋愛にまつわる悩みや愚痴の聞き役をしては、彼女たちを慰めたり励ましたりしていた。その会話の中で「あなたが男の子だったらよかったのに」という言葉を聞いては、嬉しくなったり切なくなったりしていた。
「私じゃだめなんだなあ」と何度も何度も思った。自分自身のジェンダーはずっとよくわからないまま、でも自分が彼女たちの求める「男の子」でも「王子様」でもないことだけは感じ続けていた。それはもう、悩みというよりは諦めであり、「どうでもいいや」と思わなければやっていけないような何かだった。
そうやって何年もかけて心のなかでぎゅっと握りつぶしていた何かが、恋人といるとゆっくりとひらかれていく感覚がある。
「女の子のふり」をしなくていい恋愛は初めて。だからといって「男のふり」だってしていない。恋愛をするときにはいつも必要条件のようにつきまとっていたジェンダーへの自意識が、ゆっくりとゆっくりとほどかれていく。まるであたたかい湯船につかってほっとするときのように、自分の心のなかのかたくなった部分がほぐされてひらかれていく。
「女」や「男」を演じなくても自分を好きでいてくれる人がいる。その関係性がもたらしてくれる安心感や呼吸のしやすさを、わたしはこの数か月で初めて味わい、そしてその心地よさがわたしを健やかにしてくれている。
わたしは「男の子」にも「王子様」にもなれなかったけれど、あなたの "little prince" にはなれているのかな。これまで自分でもよくわかっていなかったけど、それはまさにわたしが求めていたものだったのかもしれない。
またひとつ、知らなかったころには戻れない何かを知ってしまったみたい。この関係がどのくらいどんな形で続くかのは誰にもわからないけど、あなたが教えてくれたものはこれから先のわたしをきっと支えてくれる。
数か月前に放送された『ボクらの時代』で、ペコちゃんが息子さんと交わした「プリンス」についての会話の話をしていた。
息子さんに「ママのプリンスは誰なの?」と尋ねられたペコちゃんは、もともとはりゅうちぇるが彼女のプリンスだったこと、でも女の子になったりゅうちぇるはプリンスではなくパートナーになったということを息子さんに説明したそう。
だけどそこで息子さんは、「でも別にプリンセスが女の子じゃなくちゃいけないとか、プリンスが男の子じゃないといけないわけじゃないでしょ」と答えたそうだ。
女の子でも男の子でもだれかの「プリンス」になれるという息子さんの言葉は、りゅうちぇるとペコちゃんだけでなく、私を含む多くの人にとって、無条件の肯定のように響いただろう。
恋人との関係を築いていくなかで、その肯定の言葉をまっすぐに受け止められる私の心の準備ができていたことは、とても嬉しい偶然だった。りゅうちぇるがいなくなってしまったことはまだまだ寂しいけれど、りゅうちぇるが残してくれた希望にわたしは今もこうして救われている。
「王子様」にはなれないという現実は、もう諦めたり悲しんだりするものではない。ちょっとまぬけな "little prince" くらいにしかなれないわたしだけど、それもまた悪くないなと心から思える。
ウテナというキャラクターとその物語を、嫉妬も悔しさも感じずに楽しめるわたしが今ここにはいる。『少女革命ウテナ』を観始めたのは、恋人にすすめられたことがきっかけだった。「きっと気に入ると思う」と言ってくれた恋人に、「あなたのおかげでこの作品を楽しむことができたよ」と感想を伝えたい。
『ウテナ』を観ていたのは、Qualifying examという少し大きな試験を目前にひかえたころだった。その試験のために2年以上かけて約150冊の本を読み、この半年でそのレビューを書きあげた。
セメスターの後半は、私はその試験の準備に忙しく、同じ博士課程にいる恋人もまた学期末のペーパーで忙しい日々を過ごしていた。まともにデートをする余裕もないので、2人でよく近所のカフェに行って一緒に勉強していた。
カフェに流れるクリスマスソングを聴きながら、「いつかこのときを私はなつかしく思い出すかもしれないな」とふと思った。
毎日忙しいし、試験のプレッシャーはしんどいし、いまだに将来どうにか食べていける保証もない。だけど、目の前にはもうすぐ書きあがりそうな試験用の原稿があって、向かいの席には難しい顔をしてペーパーを書いている恋人がいて、スマホには「今日の晩ごはん何にしようか」なんていう夫からのLINEがきていて。たまには夫と恋人と3人でご飯を食べたりして、Thanksgivingのような特別な機会には友達もまじえてみんなでディナーを楽しんで。それは間違いなく、今しか経験することのできない満ち足りた時間であり、これまで積み上げてきた知識や関係性の延長線上にある生活。
「あのころは大変だったけど楽しかったな」といつか未来のわたしが思い出すときがあるとすれば、それはきっと、2人のパートナーとともに迷いながらも日々一歩ずつ進んでいる今なんだろう。
『ちょっと思い出しただけ』を観て「何も思い出さない」というブログを書いたのは去年の12月のこと。
あのときは心身ともに限界で、自分を傷つけることでしか正気を保てないような状態だった。そんなわたしに、「無事でいて」と声をかけてくれた人がいた。その人に言われるがまま、「飲酒もODもしなかった」と10年日記のさいしょに書くようになって1年が経つ。
この冬はメインランドに帰省している友人の家に住み込んで、ペットシッターとして2匹の猫の面倒をみている。毎朝6時になると「ごはんちょうだい」と乱暴に起こしにくる猫たちのせいで寝不足だ。だけど少しずつなついてきた猫たちは私の上でごろごろとくつろいだりしていて、そのふわふわの身体に触れているだけで幸せになる。
がんばれる日もがんばれない日もあったけど、「無事でいる」ことだけはどうにか守れた一年だった。猫たちとの生活はまるでそのご褒美みたいだ。
いつかまた『ちょっと思い出しただけ』を観たら「ちょっと思い出しそう」な時間がたくさんつまっていた2023年。来年もきっといい年になるよ、と猫たちはわたしの顔にひんやりとした鼻を近づけて教えてくれる。
みなさん、よいお年を。

揚げたてのとんかつと沖縄のギャル
とても悲しい訃報が届いた。
悲しいし、悔しい。
私はただのいちファンにすぎないので、何もできることなんてなかったし、悔しいといっても何がどう悔しいのかもうまく説明できないけど、悔しい。そして、悲しい。
そうして体内に築かれた宗教が重なる誰かと出会ったとき、人は、その誰かの生存を祈る。心身の健康を願う。[中略]宗教が同じ人が心身共に健康で生きているというだけで、手放しそうになる明日を手繰り寄せられるときがある。その人が生きている世界なら自分も生きていけるのかもしれないと、そう信じられる瞬間が確かにある。
朝井リョウ『正欲』
オープンリレーションシップと呼ばれるような形の結婚しか受け入れられない、親になることに興味はあるけど母親にはなりたくない、性別とか性欲とか何もかもがどっちつかずのままでしかいられない、そんな私にとって、その存在は、その生存は、希望だった。小さな希望をかき集めながらでしか成り立たない生活のなかで、大きく光っている何かだった。
一時帰国中やその前に起こった色々のことを書き残しておきたいと、ハワイに戻ってからずっと思っていた。2年ぶりに文庫版で『正欲』を読み返して、このたった数年の間に自分の中にできあがってきた「網」のことを思い、ここに書き留めておきたいと思っていた。
ずっと、自分を覗き込まれないよう、他者を登場させない人生を選んできた。その結果、生きることを推し進めていく力を自分自身で生成するしかなくなった。その状態が限界に到達したあの大晦日の日、初めて、自ら他者を求めた。
一人目に伸ばした手は線となった。いま自分は、二人目、三人目に手を伸ばそうとしている。線は十字になり、さらに交差する。それを繰り返していけば、きっと網が出来上がる。手を組む人が増えれば、編まれる網はどんどん大きくなっていく。
いま必要なのはきっと、どんな岸に立つ人でも見下ろせばその存在を確認できる、大きな大きな網だ。別の岸に飛び移りたいけれど距離があるからと躊躇うとき、もうどの岸からも降りてしまいたいと膝をつくとき、その足元に網が広がっていればどれだけ安心するだろうか。
今の社会にはそれがない。だったらもう、自分で編むしかない。ひとりでは無理だから、誰かと。折角だから、もっと多くの人と。朝井リョウ『正欲』
少しずつ編んできたその網に突然穴が開いてしまったみたいだ。穴、ではないのかもしれない。だって別に友達でも知り合いでもない。でも、その網の脆さみたいなものを思わずにはいられなくなる、そういう訃報だった。
足元を見ると不安になる。
私が編んできた網は、実は蜘蛛の巣くらい頼りないものなのかもしれない。
頑丈な網だって、それを切り裂こうとする悪意には耐えられないのかもしれない。
そういう不安が悲しみと一緒にむくむくと大きくなる。だけど私は生きていたいし、生きていると約束をしたから、足元の網をもう一度信じるためにこうして文章を書く。
「もう、もどれないかもしれないなあって、たまに思います」
沖縄の居酒屋で初対面の人と話しながらこんなことを言ったとき、不意に泣きそうになった。もどれないかもしれない。どこに?この会話では、「日本に」というような意味にとられたかもしれない。でもその時思っていたのは、そんな物理的に地図上で指をさせるような場所ではなく、もっと、時間的な、心理的な、そういうもの。
一時帰国の数週間前、大学院の友人2人を招いて家で食事会をした。夫が揚げたとんかつを皆で食べていたとき、会話の流れで代名詞を聞かれた。いつもみたいにへらへらとごまかしながら、「Sheに見えるならsheでいいんだ、別にそれでいい」と答えた。
「たとえば『トイレどこですか』って街中で尋ねたときに、『女子トイレはあっちですよ』って言われるようなら、なんかもうそう見えるならそれでいいかな、っていう諦めみたいなものがあって、あえて違うpronounを使って自分の性別を主張したいとは思わないんだよね」
言い訳みたいにそう付け足した。
すると、友人のひとりに「でも、社会的なプロテストとかそういうのはどうなんですか?もしそこで『ジェンダーレストイレはどこですか』って聞き返したら、その人も『あ、そういう人もいるのか』って思ってくれるかもしれない」と言われた。
そんなこと考えたこともなかった、と友人の言葉に感心しながら、それと同時に、そんなことを考えたこともなかった身勝手な自分が恥ずかしくなった。
そっかあ、そこまで考えてなかったなあ、とまるで思考の浅さが原因のように思わず言ってしまったけれど、それは深さというより視野の問題だ。たくさんの人がいる空間が苦手だから、なんて言って、ずっとアクティヴィズムとの距離を置いてきた。でもそうやって逃げ回っているうちに、自分の関心を狭めることに私は慣れきっていた。デモやパレードのような人がたくさん集まる場所じゃなくても、日常の一場面でできることがあるのだと、そんなことも忘れるくらい、自分のことばかり考えていた。
ジェンダーやセクシュアリティの問題については色々研究書も読んできているから、知識はある。もちろん、日常の生活の中でできる抵抗がたくさんあるのだ、ということも「知識として」知っている。それなのに。それなのに、から言葉が続かない自分が、よりいっそう恥ずかしくなる。
そして、もう一人の友人にこう聞かれた。
「あなた自身は、本当は何がいいの?」
適当にごまかして終わるはずの会話が終わらなかった。真剣なまなざしでそう問われて、もうごまかせなかった。会話の相手ではなくて、自分をごまかせなかった。
「本当は、itがいい、ジェンダーを決めないと人間になれないのは嫌だ」
友人たちを目の前にしてこれを言うのは、誰が見ているかわからない(というかほとんど誰も見ていないであろう)ブログで書くのとはわけが違った。でももう嘘はつきたくなくて、何より、今目の前にいる2人なら大丈夫かもしれないという自分の中の期待が抑えきれなくて、少しだけ声を震わせながらそう打ち明けた。
私の言葉を聞いた友人は、この代名詞を他の人の前でも使ってほしいか、ごくプライベートな関係の中だけにしてほしいか、そこまで確認したうえで「わかった」と笑顔でうなずいてくれた。(みんなの前では使わないでほしい、とお願いした。)
カミングアウトではないけれど、何かそれに近いような、不思議な瞬間だった。少しだけ、体が軽くなったような気がした。
恥ずかしさと安心感とが交互に襲ってくる忙しい気持ちと共に、自分が今その会話を特に何の恐怖も感じずにできているということが嬉しかった。そう、私はあのとき嬉しかったのだ。今自分がいる場所を、その時間と空間を、ひとつの居場所のようなものとして認識できたその会話が、とても嬉しかった。
そして、夕飯も終わってだらだらと研究の話なんかをしていた時、私はふと思い出してミーカーの動画の話を2人にした。
ミーカーを演じるりゅうちぇるがいかに素敵かを熱弁し、「ぜひ見てみて!」と押しつけがましいくらいの勢いで薦めたのを覚えている。その2人には夫との「家族憲法」の話、つまり「不倫OK」とすることで一夫一婦制を乗り越える家族を作りたいという話もしていたので、りゅうちぇるがそのとき表明していた家族の形を心から応援しているという話もした。
友人との間にできた線と、りゅうちぇるの活動や生き方に私が感じていた線は、そこで交差して、私の心の中の「網」をまた少しだけ頑丈にしてくれた。その事実は何が起きたって変わるものではない。それは何か大きなものを前にしたときには脆い網なのかもしれないけれど、それでも、私はもう、そういう網を編めることを知ってしまったのだから。
もう、もどれないかもしれないな、と思う。
でも、もう、もどらなくてもいいのかな、とも思う。
いや、私はきっと、もう、もどりたくないんだ。
たくさんの希望をありがとう、ここまでたどりつく道の光となってくれてありがとう。
でも、生きていてほしかったな。
