煉獄日記

目指せ天国。

正しさの境界線

最近なんだか涙もろい。疲れてんのかな。
いや、たぶん、疲れてる訳じゃない。良いものに触れて、泣いているだけ。

人にすすめられて『大豆田とわ子と三人の元夫』を観てる。「第4話がとてもいいよ」と言われて、何日か前に第4話までたどり着いた。

泣いた。馬鹿みたいに泣いた。

「かごめちゃん言ってたよ。『とわ子は家族なんだ』って」。

かごめはなんか知らないけど気がつけばとわ子の家にいる。違和感なんて最初の最初の一瞬だけで、とても自然にかごめはとわ子の家にいる。その理由も彼女たちが30年来の友人だってこと以外とくに説明は無い。でもかごめは当たり前のようにとわ子の家にいて、一緒にご飯を作って、食べて、そこで五条さんからデートにまで誘われちゃう。(あのシーンはさすがに、五条さんここでデート誘うんかい、とは思った。)

でも、作品の細部からはかごめの孤独がこぼれ出る。実家への反発と嫌悪。いとこたちの言葉と視線。3日放置されるスマホ。理解できないじゃんけんのルール。山みたいな周りの人たち。
多くの人が知らず知らずのうちにアイデンティティの拠りどころとしている家族から逃げ、男と女が好き合えば恋愛という距離の近すぎる関係になってしまうからとそこからも逃げる。ひとりはちょっとさびしいと言いながらも、そうやってしか生きられない自分をきっと彼女は愛している。

でも、とわ子は家族なのだ。

とわ子はかごめの孤独を感じ取ることはできても理解はできない。山だから。でも彼女はかごめと大喧嘩するし、いなくなれば心配するし、何より、一緒にいることを当たり前に思っている。

 

きのう朝井リョウの『正欲』を読み終わった。
最初の8割くらいは、なるほどー、特殊な性癖を持つ何人かとその他数名の登場人物を通して「正しい欲望」と「正しくない欲望」の対比を描いていくのねー、初朝井リョウ作品だけどなかなか面白いわー。それが最初の8割の感想。

でも終盤に近付くにつれて、「正しい/正しくない欲望」の意味がぐにゃぐにゃと輪郭を変え始める。「正欲」は「せいよく」であって「性欲」ではない。人の欲望の対象は性なんかよりもっとずっと広く自分でも捉えがたいほどに曖昧。なのに世にのさばる恋愛(性愛)礼賛は、性欲を掻き立てる人間だけを愛と欲望の対象と認め、その曖昧さをさらに手の届かないものにする。

この物語がたどり着く「正しい」欲望は、おそらく他者の存在そのものに対する欲望なんだと思う。性欲の対象が人間でないゆえに「他者を登場させない人生を選んできた」登場人物たちが、逆説的に他者の存在の価値に気づき始める。

「その分、重石か何かで、自分をこの世界に留めてもらってるみたい」
呼吸をするたび、冷たかったシーツが温かくなっていく。
「ここにいていいって、言ってもらえてるみたい」
シーツの冷たさが、顔の温度と混ざっていく。
「どうしよう」
重なった二つの身体の境目が、どんどんなくなっていく。
「私もう、ひとりで生きてた時間に戻れないかも」
これまで過ごしてきた時間も、飼い慣らすしかなかった寂しさも、恨みも僻みも何もかもが、一瞬、ひとつに混ざったような気がした。

佳道と夏月はここで比喩的にではなくただ文字通り身体を重ねている。そこに性的な意味はない。それでも彼らはふたつの身体を否応なく感じ、まるでひとつになったかのような幻想が生まれる。
でもそれは「一瞬」の出来事。他者は他者、その事実が変わることはない。じゃあやっぱり人はどうしたってひとりなのか。特に彼らのようなマイノリティを自認する人々は、ひとりだと感じ続けなければいけないのか。

違う。他者の存在は、重石。「人間の重さって、安心するんだね」と夏月は言う。重いのは、それが他者だから。そしてその重みは人を世界に繋ぎとめる。その重みが与えてくれる安心感は「ひどく不安定で一時的なものかもしれない」。でも、他の誰かがまた重石になってくれるかもしれない。誰かひとりが与えてくれる重みが不十分でも、何人か集まれば十分な重石になるかもしれない。それは全部ひとりじゃどうしようもないことだから不確実な可能性でしかないけれど、その重石の存在を知って生きる時間は「ひとりで生きてた時間」にはきっと戻らない。

体内に築かれた宗教が重なる誰かと出会ったとき、人は、その誰かの生存を祈る。心身の健康を願う。それは、生きていてほしいという思いを飛び越えたところにある、その人が自殺を選ぶような世界では困る、という自己都合だ。
(中略)
宗教が同じ人が心身共に健康で生きているというだけで、手放しそうになる明日を手繰り寄せられるときがある。その人が生きている世界なら自分も生きていけるのかもしれないと、そう信じられる瞬間が確かにある。

作中でこの「宗教」は登場人物の「特殊な」性癖というような意味で使われているけど、性癖に限らずこういう「宗教」ってたぶんもっとたくさんある。たとえば、家族教。マジョリティすぎて信者であることにすら気が付かない人々。その宗教圏に生まれたはずだけど、私は残念ながらありがたいことに異教徒だ。「親子ならわかりあえるはず」、「育ててもらったことに感謝しなきゃ」、家族教の聖典に並ぶ言葉たち。嘘つけ。
家族教を信じない人は多い。でもそこで何を信じるかは結構みんなバラバラで、だから私は、とわ子とかごめが築いたような「新しい家族」教を作ることにした。教義、発展途上。信者数、不明。

そして、勝手に祈ることにした。この人と同じ世界に生きていることがそれだけで嬉しいと心から思える、そういう相手の生存と良い毎日を勝手に祈る。時には心の奥のどこかで、時には強く強く涙が出るほどに。そんなグラデーションを描きながらも、この祈りは途切れなくつづく。彼らが何を信じているかは知らない、ちょっと怖くて聞けないなぁと腰がひける。ただ、彼らが私にとって大切な人だから、これまでの人生で間違いなく私の重石になってくれた人だから、まるで片想いみたいだけどそれでも祈る。

「いなくならないで」

彼らのために祈るふりをして、私はけっきょく「いなくならないで」と自分のために祈っているのかもしれない。

「いなくならないから」

神様なんてどうでもいい。家族教の教義なんてもっとどうでもいい。「新しい家族」教とか言ってるけどそれが要するに何なのかすらどうでもいい。
いなくなりたいというあなたに私が最初にかけた言葉は「やだ」だった。そんなの“私が”耐えられない。あなたがいない世界では“私が”生きていけない。超勝手だ。思いやりのかけらもない。でも、そのとき私にできたのは「いなくならないで」と祈り、「私はいなくならないから」と精一杯伝えることだけだった。「いなくならないから」と言ってもらえること、言いたい相手がいること。それが一番の救いだと気づくのに、30年以上かかっちゃった。

で、なんかもうさ、これ「家族」じゃん。
「正しい」家族の何がそんなにいいのか、いくら幸福そうなサンプルを見てもよくわかんない。それに結局みんなが何をもって誰かを「普通の」家族の一員と見てるのかも理解できない。でも、「いなくならない」でいてくれたら世界のどこでどう生きていたって私も生きていけそうだなあって思う、みんなそういう人を家族って呼んでるんじゃないの?違うの?もし違うなら、なんでそんなに家族家族って言うの?
わかんないや。わかんないから、もう「家族」って呼ぶことにする。だってこれ、家族教の異教徒ながらに心の隅っこで「なんかいいなあ、欲しいなあ」って思ってた幻みたいなのにすごく近いもん。これは「家族」。

 

たとえば、お父さんとお母さんが愛し合っていて愛の結晶の子どもがいる(ということになっている)「正しい」家族を100%の家族とする。かごめにとって「お父さんでお母さんで兄弟」みたいなとわ子がいて、あと100年くらい大人になれない「子ども」のかごめ自身がいて、二人の愛の結晶でもなんでもないけど二人で成長を見守ってきた唄がいる。その関係性って60%くらいは家族なんじゃないのかな。だからかごめは、40%だけひとりぼっち。
「いなくならないで」という祈りに「いなくならないから」と応えることでお互いが、またはもっと多くの人が生きていけると思える関係も、もしかしたらある人にとっては2%くらい、ある人には80%くらい、そして時には複数人が合わさることでほとんど100%近い家族になったりするんじゃないかな。その不安定さはひとりぼっちを残すだろうけど、重石としての他者を知っているあなたはきっと見棄てられたような残酷なひとりぼっちに取り残されたりはしない。

そんな、家族はパーセンテージで表せないだろ、人の関係は家族か家族じゃないかのどっちかだろ、家族教を盲信するどこの誰かもわからない何者かはそんなことを言う。何度も何度も何度も、あっちからもこっちからもいろんな声で異教徒を取り囲む。

うるせぇよ。

私はあの子と一緒に暮らせたらと思う。リビングの掃除したり、洗濯物の干し方で喧嘩したり、良いことがあった日にはお互いの好物を料理したりして、それを日常にしたい。あなたが病気になったら看病するし、何か大変なことがあったら一目散に駆けつける。それってもう、54%くらいは家族なんじゃないの?
私はあの人をできる限り支えられたらと思う。残念ながら(?)彼については恋愛っぽい感情がゼロかと言われれば「さあねぇ?」ってなるけど、確実にそんな感情を超えた何かがある。仕事がつらそうなあなたに「養ってやるからしばらく休め!」って言ってあげられない自分が心底悔しい。そんな自分の無力さが嫌になる。当然のようにこんな風に思えるって、47%くらいは家族って言っていいんじゃないの?

あら、二人合わせたら101%だ。親も兄弟も「いない」私に100%を超える「家族」ができてしまった。でも54%と47%それぞれの残りのところでは、私はひとりのままだ。ちょっとさびしくて安全な、ひとりぼっち。この組み合わせって、すごい安心と幸福に満ちた暮らしだと思わない?
わかってるよ、こんなの全部一方的でばかけた妄想かもしれない。でも今はそれでいいんだ。だってこういう「家族」を思い描けることが、その可能性を信じられることが、すでに私にとって救いなんだから。

世の中の夫婦が離婚したり親子が絶縁したりするように、いつか私も彼らと離れてしまうかもしれない。反対に、そう思える人が増えることもあるかもしれない。あるいはまたひとりぼっち100%になるかもしれない。それはわからない。ただ、そういうものに自分を開いていたいと思う。


とわ子とかごめは家族だ。
公式HPの相関図には「大豆田家」の黄色い楕円の中に、とわ子と唄ととわ子の父旺介だけが入っている。それでも、誰がなんと言おうと、とわ子とかごめは、家族だ。

だって、視聴者すら顔を見せてもらえなかった最期のかごめに「さようなら」って最初に言ったのは、きっととわ子だったんでしょう?