煉獄日記

目指せ天国。

ひらいて、ひらいて

この夏に恋人ができた。もちろん夫とも今まで通り楽しく暮らしている。

恋人ができたことについて、夫と恋人という2人のパートナーを持つ生活について、モノガミーをこえる家族という理想に少しだけ近づいた今の私の「家族」について、なにか書きたいと思いながらも、様々な思いが頭の中でこんがらがってなかなか何も書けなかった。

というか、今でも頭の中はこんがらがったままで、この下書きも書いたり消したり何度もしている。書きたいことが多すぎるのか、今の状況や感情を語る言葉が少なすぎるのか。どっちでもないような、どっちでもあるような。


最近、『少女革命ウテナ』のアニメと映画を観た。
有名な作品だから名前は聞いたことがあったけれど、観るのは初めて。「王子様」になりたいという主人公ウテナの願望や家父長制批判のプロットはいくらでも深読みができる一方で、「決闘」シーンのたびに繰り返される音楽や整然としているようでどこか歪な画面構成は観ているだけで気持ちよくなる。子どもが観ても大人が観ても面白く、子どものころに観ていても大人になってから見返したくなるような細部を多分に含んだ物語。テレビで放送されてから25年以上経った今でも根強いファンがいることに納得のいく、とても良い作品だった。

だけど、そんな良い作品だからこそ、最初の数話を観てまず私が思ったことは「初めて観たのが今でよかった」ということだった。

主人公のウテナは、幼いころに出会った「王子様」に憧れるあまり自分も王子様になろうとする女の子。物語の後半では、「女子」である自分と「王子様になりたい」という願望の間で葛藤するウテナの姿も描かれるけれど、最初の何話かでのウテナは「女子の王子様」という地位を確立した学園内の人気者として登場する。

そのようなウテナのキャラクターを、今の私は素直に「いいな」と思えるけれど、もし私がまだ10代だったら、女子校に通っているころだったら。あるいは、まだ恋人と付き合っていなかった半年前の私だったら。わたしは、何を思っていただろうか。


恋人はときおり冗談めかして私を "my prince" と呼ぶ。
「わたしは王子様って柄じゃないよ」と笑いながら、気恥ずかしいような、くすぐったいような、あたたかい気持ちになる。

思春期の女の子ばかりが寄せ集められた女子校という空間では、自然と「王子様」のような立ち位置の子が出てくる。中高6年間女子校に通ってわかったことのひとつが、私は「王子様」になれるタイプではないということだった。
「王子様」は必ずしもボーイッシュな子とは限らない。運動ができる爽やかな人気者タイプの子だったり、逆にちょっとミステリアスな雰囲気の子だったり。思い返してみても「王子様」的な立ち位置にいた子たちのはっきりとした共通点はわからない。あえていうなら、「なんとなく魅力的」ということくらいだろうか。
彼女たちの魅力をうまく因数分解できないまま、それでもその「何か」が私に足りないことだけは明らかだった。それは努力でどうにかなるような性質のものでもなかった。そもそも、努力をするだけの勇気も私にはなかった。

それは仕方のないことだ、周りのみんなのことは大好きだ、だからこれでいいんだ。そう思いながら、忘れたことも忘れるくらいに「王子様」になりたい気持ちは忘れることにした。「気楽に話せる男友達」くらいのポジションにいられればいいや、と思うことが精いっぱいの妥協点だった。

大学に入って共学の世界に出ていった友人たちは、ほんものの「男の子」の「彼氏」を作り始めた。
相変わらず女友達と男友達の中間のような微妙なポジションでふらふらしていたわたしは、彼氏ができないとか、彼氏とうまくいかないとか、彼女たちの恋愛にまつわる悩みや愚痴の聞き役をしては、彼女たちを慰めたり励ましたりしていた。その会話の中で「あなたが男の子だったらよかったのに」という言葉を聞いては、嬉しくなったり切なくなったりしていた。
「私じゃだめなんだなあ」と何度も何度も思った。自分自身のジェンダーはずっとよくわからないまま、でも自分が彼女たちの求める「男の子」でも「王子様」でもないことだけは感じ続けていた。それはもう、悩みというよりは諦めであり、「どうでもいいや」と思わなければやっていけないような何かだった。

 

そうやって何年もかけて心のなかでぎゅっと握りつぶしていた何かが、恋人といるとゆっくりとひらかれていく感覚がある。
「女の子のふり」をしなくていい恋愛は初めて。だからといって「男のふり」だってしていない。恋愛をするときにはいつも必要条件のようにつきまとっていたジェンダーへの自意識が、ゆっくりとゆっくりとほどかれていく。まるであたたかい湯船につかってほっとするときのように、自分の心のなかのかたくなった部分がほぐされてひらかれていく。
「女」や「男」を演じなくても自分を好きでいてくれる人がいる。その関係性がもたらしてくれる安心感や呼吸のしやすさを、わたしはこの数か月で初めて味わい、そしてその心地よさがわたしを健やかにしてくれている。

わたしは「男の子」にも「王子様」にもなれなかったけれど、あなたの "little prince" にはなれているのかな。これまで自分でもよくわかっていなかったけど、それはまさにわたしが求めていたものだったのかもしれない。
またひとつ、知らなかったころには戻れない何かを知ってしまったみたい。この関係がどのくらいどんな形で続くかのは誰にもわからないけど、あなたが教えてくれたものはこれから先のわたしをきっと支えてくれる。

 

数か月前に放送された『ボクらの時代』で、ペコちゃんが息子さんと交わした「プリンス」についての会話の話をしていた。

息子さんに「ママのプリンスは誰なの?」と尋ねられたペコちゃんは、もともとはりゅうちぇるが彼女のプリンスだったこと、でも女の子になったりゅうちぇるはプリンスではなくパートナーになったということを息子さんに説明したそう。
だけどそこで息子さんは、「でも別にプリンセスが女の子じゃなくちゃいけないとか、プリンスが男の子じゃないといけないわけじゃないでしょ」と答えたそうだ。
女の子でも男の子でもだれかの「プリンス」になれるという息子さんの言葉は、りゅうちぇるとペコちゃんだけでなく、私を含む多くの人にとって、無条件の肯定のように響いただろう。
恋人との関係を築いていくなかで、その肯定の言葉をまっすぐに受け止められる私の心の準備ができていたことは、とても嬉しい偶然だった。りゅうちぇるがいなくなってしまったことはまだまだ寂しいけれど、りゅうちぇるが残してくれた希望にわたしは今もこうして救われている。


「王子様」にはなれないという現実は、もう諦めたり悲しんだりするものではない。ちょっとまぬけな "little prince" くらいにしかなれないわたしだけど、それもまた悪くないなと心から思える。
ウテナというキャラクターとその物語を、嫉妬も悔しさも感じずに楽しめるわたしが今ここにはいる。『少女革命ウテナ』を観始めたのは、恋人にすすめられたことがきっかけだった。「きっと気に入ると思う」と言ってくれた恋人に、「あなたのおかげでこの作品を楽しむことができたよ」と感想を伝えたい。

 

ウテナ』を観ていたのは、Qualifying examという少し大きな試験を目前にひかえたころだった。その試験のために2年以上かけて約150冊の本を読み、この半年でそのレビューを書きあげた。

セメスターの後半は、私はその試験の準備に忙しく、同じ博士課程にいる恋人もまた学期末のペーパーで忙しい日々を過ごしていた。まともにデートをする余裕もないので、2人でよく近所のカフェに行って一緒に勉強していた。

カフェに流れるクリスマスソングを聴きながら、「いつかこのときを私はなつかしく思い出すかもしれないな」とふと思った。

毎日忙しいし、試験のプレッシャーはしんどいし、いまだに将来どうにか食べていける保証もない。だけど、目の前にはもうすぐ書きあがりそうな試験用の原稿があって、向かいの席には難しい顔をしてペーパーを書いている恋人がいて、スマホには「今日の晩ごはん何にしようか」なんていう夫からのLINEがきていて。たまには夫と恋人と3人でご飯を食べたりして、Thanksgivingのような特別な機会には友達もまじえてみんなでディナーを楽しんで。それは間違いなく、今しか経験することのできない満ち足りた時間であり、これまで積み上げてきた知識や関係性の延長線上にある生活。
「あのころは大変だったけど楽しかったな」といつか未来のわたしが思い出すときがあるとすれば、それはきっと、2人のパートナーとともに迷いながらも日々一歩ずつ進んでいる今なんだろう。

 

『ちょっと思い出しただけ』を観て「何も思い出さない」というブログを書いたのは去年の12月のこと。
あのときは心身ともに限界で、自分を傷つけることでしか正気を保てないような状態だった。そんなわたしに、「無事でいて」と声をかけてくれた人がいた。その人に言われるがまま、「飲酒もODもしなかった」と10年日記のさいしょに書くようになって1年が経つ。

この冬はメインランドに帰省している友人の家に住み込んで、ペットシッターとして2匹の猫の面倒をみている。毎朝6時になると「ごはんちょうだい」と乱暴に起こしにくる猫たちのせいで寝不足だ。だけど少しずつなついてきた猫たちは私の上でごろごろとくつろいだりしていて、そのふわふわの身体に触れているだけで幸せになる。

がんばれる日もがんばれない日もあったけど、「無事でいる」ことだけはどうにか守れた一年だった。猫たちとの生活はまるでそのご褒美みたいだ。
いつかまた『ちょっと思い出しただけ』を観たら「ちょっと思い出しそう」な時間がたくさんつまっていた2023年。来年もきっといい年になるよ、と猫たちはわたしの顔にひんやりとした鼻を近づけて教えてくれる。

 

みなさん、よいお年を。

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