煉獄日記

目指せ天国。

結婚をしたいのかもしれない⑤

日本を離れて約半年が経った。アメリカでの暮らしはなかなか気に入っている。

アメリカ暮らしの何がいいか。私の暮らしているところは気候がいい。そして基本的に人がフレンドリーである。ポジティブなものの見方が強くて、相手を褒めるのもうまい。でも、そういうアメリカ特有の条件以上に気に入っていることがある。それは、「外国人」になれてしまうことだ。

「外国人」になれるというのは、同時に私にとって、女性性の規範を無視する言い訳が与えられることでもある。

 

アメリカが様々な面で多様性に寛容というか積極的な国であることは確かだ。でもそこにはやはり依然として、かなり強固な男性性や女性性のイメージと規範がある。簡単に言えば、「女性はこうであるべき」という考えが日本とは全く別の基準で存在する。それに従わない場合には、多少の不利益を被ることもある。

しかし私はこちらに来てから、そういうものを全力で無視している。「外国人だからよくわかりません」というような顔をしてやり過ごしている。そうすると周りの人々も、「よくわかんないけど、外国人だしそういうものなのか?」と納得してくれる。いや、納得しているのかはわからないけど、とりあえずそういうことにしておいてくれる。

それが本当に楽だ。なんて気楽なんだ。

 

この気楽さも、「恋愛関係にない女性と結婚したい」という気持ちを文章化する助けになっているのは確かだと思う。恋愛うんぬんは置いておくとしても、男女のペアが夫婦になるときには、どうしたって女性側が女性的な役割を負うことになる。たとえ本人たちがそういうものから完全に自由であったとしても、結局周囲がうるさい。そういうジェンダーロールのようなものがずっと嫌いだったけど、「外国人」としてのらりくらりとしていることで、「もうそういうのどうでもよくない?」という気持ちが強まったのかもしれない。

 

さいころから「女の子らしく」するのが苦手だった。

一番古い記憶は幼稚園の頃。発表会のためのダンスの練習で、女の子用の振り付けにはお姫様のあいさつのようなかわいらしいポーズがあった。その振り付けを先生から聞いた時には周りの子たちも「えー恥ずかしいーいやだー」と言っていたのに、実際の練習が始まったらみんなあっさりとやっていた。むしろちょっと照れながらもなんだか楽しそうにやっていた。そんな彼女たちを見た私は「裏切られた!」という気持ちでいっぱいになり、「絶対嫌だ」と床に座り込んでだだをこねた。

結局そのダンスをどうしたのかは覚えていない。「そんな恥ずかしいことはできない」と先生に主張したような気はするけど、そう言いつつも最後にはやったのかもしれない。でもずっと、それがなんでそんなに嫌だったのかはよくわからなかった。というか「なぜ」という点ではいまでもよくわかっていない。

 

中高はとてもリベラルな女子校に通い、性別なんてかけらも気にしないような生活をした。女子校というのは女しかいないというより、そこに性別が存在しなくなるのだ。行動のひとつひとつを女の子らしいとからしくないとか言われることがない。もちろんそれはあの学校の校風もあり、良妻賢母教育なんてくそくらえ、みたいな方針で先生たちがふるまってくれていたことも大きかったと思う。

思春期というのはジェンダーセクシュアリティの意識を形成するうえで重要な時期なのだろう。そしてその時期を私は、「そういうの何も気にしなくていいよ」という非常におおらかな環境で過ごした。ちなみに制服もなく私服登校だったので、6年間でスカートをはいた記憶も数えるほどしかない。私自身はただの地味な生徒だったけれど、ボーイッシュな子からおしゃれでかわいい子まで当然ながら色んな子がいた。みんなかっこいい先輩に憧れたし、モテる人はめちゃくちゃにモテていた。全員が身体的には女性という性を割り当てられる存在でありながら(それは一応入学条件だったから)、一般の社会では半強制的に男女に割り当てられる様々な役割を個々の好みや個性に応じて自由に選ぶことができた。その環境の中で私は意識的に何かを選ぼうとしたことはなかったけれど、なんとなく自分のしたいようにしていた。学校の内外で好きな人ができたりもしたけれど、正直SMAPを追いかけていることの方がよっぽど大事だったし、恋愛の重要度なんておいしいお菓子と同じくらいのものだった。そして、それが普通だった。

しかし高校を卒業して大学に入学し、久しぶりの共学になったとたん、それがどれだけ特殊で恵まれた環境だったのかを実感した。

私としては何も気にせず普通にしているだけなのに、「女の子はそういうことしちゃだめだよ」と言われたりした。今でも覚えているのは、当時気になっていた男の子に「普段は男っぽくしてるくせに、そういうところは突然女らしくなるんだな」と言われたこと。お台場のバーベキュー場で言われたことは覚えているけれど、文脈は全く覚えていない。ただ、何を言っているのかよくわからなかった。私は私が気持ちよくて楽しい方を選んでいるだけなのに、なぜそこに性別の問題が出てくるのか。わりとショックだったし、息苦しいと思った。

 

たぶんそのころからだと思う。「中性になりたい」と思うようになった。

私の場合は、女の子らしくできないからといって、男の子になりたいと思ったこともない。厳密にいえば、男性が社会的に持っている特権のようなものが羨ましいとは常々思っているが、それは社会のシステムの問題であって、フェミニズムジェンダー論で少なくとも理論上は改善が可能なことだ。まあ実際の社会はそうもいかないけど。

しかし、私が求めているものはたぶん少し違う。性別そのものの価値の問題。平等とかそういうことではなく、「女である」とか「男である」とか、さらに言えば「セクシャルマイノリティである」とかいうことが、手相の生命線の長さとか、足の爪の大きさとか、それくらいどうでもいいものになってほしい。

それをすべての人に求めるつもりはないし、むしろ私自身が恋愛対象として人を好きになるときに男性は男性として、女性は女性として好きになっているという事実を認めれば、そもそもそこに矛盾がひそんでいることもわかっている。

それでも、例えばレディースデーに映画館へ行って身分証も見せていないのに「女性は1000円です」と言われたり、トイレの場所を聞いたら当然のように女子トイレの場所を案内されたり、そういうことが不快を通り越して苦しい。「女性ですよね?」と聞かれたら「はい」と答える。でも、何も言ってないのに「女性ですね」と判断されることがなぜか私にはとても耐え難い。

身長的な問題でレディースの服しか着れないけど、それも割としぶしぶそうしている。だから友人の結婚式に呼ばれて、ドレス・メイク・ヒールの三点セットを身に着けると発狂しそうになる。「これは女装だ、私はいま女装をしているのだ」と自分に言い聞かせ、友人への祝福の気持ちに集中することでどうにかしのいだ。友達の結婚ラッシュが終わって本当によかった。服装の件でいえば、なぜか洋服はフォーマルになるほど男女差がぱっきり分かれるので、それが就職/就活に踏み切れない大きな理由にもなった。大学院行きたかったから別にそれはいいんだけど、でもその問題がゼロだったら私は何を選んでいたんだろう、とも少し思う。

 

でも、本当に私が心から「性別なんて気にしません」っていうところに達していたら、実際は結婚相手も男性だって女性だっていいはずなんだよね。そこまでは、まだなれない。男性とペアになったら、一応女性役をやってしまう気がする。

『結婚の奴』に「でも、『彼女』って、こういうのを片づけてあげたり、家事をやってあげたり、するもんなんでしょう」という一文があるけれど、その「彼女」の部分が私はうっかりすると平気で「女性」にまで広がってしまう。特に相手が男性で、それも恋愛関係にある男性だったらなおさら。「こうするもの」というのがわかっているようでよくわかっていないから余計に、相手に好かれようとすると妄想の「女性の型」を生み出してそれにはまり込む努力をしてしまう。

で、途中で耐え切れなくなる。

女の子っぽくするふりをしておいて、ある日突然我慢できなくなるんだからたちが悪いなと自分でも思う。前に彼氏とカラオケに行って「女性歌手の曲を歌ってるときのほうが好きだな」と言われたときは死ぬほど腹が立ったけど、ていうか今でも全然許せてないし「私の何を見て好きとか言ってるんだこの野郎」と強めに問い詰めたい気持ちはしっかり残っているけれど、それが私のねじれたジェンダー観から生じた八つ当たりであることもわかってる。

 

「中性になりたい」という妙な願いを私がこれからどう追究/追求していくのか、自分でもまだわからない。これから5年くらいアメリカにいる予定だから、その間に何か気分が変わるかもしれない。

でも、できるだけ「女装」は強いられたくないなぁ、とそれだけは思う。あえて、自ら、たまーにするなら悪くないかもしれないけど。