煉獄日記

目指せ天国。

結婚をしたいのかもしれない②

 木曜日は授業が夜8時半まであるのだけど、暗くて危ないからと帰り道は先生が毎週車で送ってくれる。とてもありがたい。授業の質問から少しプライベートなことまで二人で話せる約15分間。こういう小さな時間の積み重ねは、大きな精神的支えになる。特に孤独な海外生活では。

今日はなぜか『結婚の奴』の話、というかゲイの男性と結婚した日本人女性の話をした。まあもちろん私が話題を振ったのだけど。「セックスしない相手と一緒に住むなんて考えられない!」と、とても素直な反応をする先生に笑ってしまった。運命の人、英語で言うならば "the one" の考え方は根強い。考え方というより、もはや一種の信仰である。

で、私はその "the one" の概念を否定しようとは思わないけれど、それを結婚と結び付けること、特にそれ以外の結婚は「不純」や「失敗」であると見なそうとする圧力に対しては否定的な立場をとりたい。

 

過去のツイートを見てみたら、2014年の時点ですでに私は「やはり性愛と婚姻制度が密接しているのがよろしくないと思う」と書いていた。そんなに前からこのことを考えていたのか、というのはちょっとびっくり。今ならやっと、なぜそう考えるようになったのかを言葉にできる気がする。

 

まずは「恋愛関係」ということがどういうことか考える。先生の言葉ではないが、まず第一義に「性行為をしたいと思う相手」ということが言えるだろう。やはり恋愛が恋愛たるためには、たとえ性行為のようなわかりやすい身体の関係がなかったとしても「性的対象として魅力的だと思う/思われたい」という要素は欠かせない。そしてもう一つは、相手を自分のものにしてしまいたい、という欲求だと思う。この欲求は様々な形で現れる。相手のすべてを知りたい、自分だけを見ていてほしい、自分のことをわかってほしい、できるだけ多くの時間と経験を共有したい、などなど。もちろんこれは現実的な欲求ではないから、大抵の人は付き合いの中でいろいろなものに折り合いをつけていくし、そのうち元々そんな感情を持っていたことさえ忘れてしまうかもしれない。でも、不倫や浮気に苛立つ人が多いことを見れば、この欲求がたとえ薄れて消え去ってしまったように見えても、恋愛関係を形づける根強い枠組みであることは明らかだ。

私が問題だと思うのは後者。というか、前者は後者の付随物だとすら思っている部分もある。恋愛という感情が、心身ともに「ひとつになりたい」という不可能な欲求にもとづいているなら、長い時間一緒にいたら不満が溜まってくるのは当然だろう。もちろん一緒にいて楽しいとか、安心するとか、幸せだとか、そういう感情がわいてくるのも嘘だとは思わない。むしろそうでなくちゃ困る。でも、そういうポジティブな感情に覆い隠されていたとしても、二人が別の人間でありそこに「恋愛感情」がある限り、小さなフラストレーションはつきまとうものなのではないかと思っている。

「ひとつになりたい」という欲求を完全に満たすのは不可能だけど、部分的には可能である。相手が自分の一部であるような感覚、または、別れたときに自分の一部がもぎ取られたり、穴が空いたような感覚を覚えるのは、両者の感情がその関係性と時間の中で部分的に溶け合っているような状態になっているからだろう。だから、相手と「合わない」ときや、何かがうまくいかなくなってしまうときには、その事実そのものが辛いだけでなく、自責の念に近い何かがわいてくる。

攻撃の方向が自分ではなく相手に向かう場合もある。というか一般的にはそっちの方が多いのかもしれない。浮気や不倫といった、世間的に「悪い」とされている事態が起こったらなおさらだ。浮気も不倫も、相手が自分以外の人間と新しい関係を築いた、それだけのこと。それが「浮ついた」「倫理に外れた」ことだと非難されるのも、お互いがお互いだけを見ているという空想上の一体感が信じられているからではないだろうか。

こういう恋愛の前提が、恋愛の問題である分には問題だと思わない。なんだかんだいって恋愛は楽しいことも多い。でも、家族の問題になったらそれは別だ。

上に書いたような理由で、恋愛関係は一歩間違えると「合わない」というそれだけの事実が、相手や自分への怒り、嫌悪、憎しみへと変化していきやすい。状況判断が静かに価値判断へとスライドしていく。私はそれが怖い。とても怖い。

 

前回の記事に書いたように、私は家族や結婚の価値を「セーフティーネット」だと思っている。だからできるだけそこには安定感が欲しい。かわいさ余って憎さ百倍、みたいなことが容易に起きてしまう関係性をそこに持ち込みたくない。憎みたくないし、憎まれたくない。ていうかそもそも憎むようなことじゃないだろう、という事態が多すぎる。

 

まどろっこしく抽象的なことを書き連ねたけれど、結局これは私が自分の親を見てきた感想でしかないのだと思う。

父親のことを忌み嫌う母に育てられ、幼いころは素直に父親が「悪い人」なのだと思っていた。でも成長するにつれ、もう少し冷静に両親の状況が見えるようになり、さらに十代の終わりころには母親の口から直接、2人の交際から現在までの経緯を聞くことになった。裁判資料のための聞き書きとして私がメモをした母の話は、あまりにありきたりなものだった。これまで母親から聞かされてきた父の悪口は、単なる嫌悪感からきたものではなく、ありていに言えば「嫉妬」からきたものなのだったと知った。それは嫉妬であり、理想の結婚/恋愛を成し遂げられなかったことへの恨みであり、父をひたすらに責めたてることによる自己防衛であった。

くだらない。父と母は「合わなかった」、それだけだ。両者とも落ち度はあっただろうけれど、人格を否定されるほどのことはしていない。「合わない」けど適度に距離を保とうとか、「合わない」のは違う人間だから仕方がないとか、そういう考えが二人には抜け落ちていた。というか、恋愛結婚の時点で「合う」ことを前提にしてしまっている以上、「合わない」という事実そのものに彼らは苛立ってた。それでも離婚という選択肢は、自分の過去の決断を否定されるようで、そしてまた現在の自分自身が否定されるようで、本当にいろいろなことが限界になる寸前まで出てこなかった。

 

繰り返し言うようだけれど、恋愛結婚を否定はしない。それで幸せになる人もいるだろう。

でも、恋愛が結婚の第一条件である必要はないと認めてほしい。少なくとも、そうかもしれない、ともっと多くの人に思ってほしい。

かわいさ余って憎さ百倍とは本当にうまく言ったものだと思う。私は、自分がもつ「家庭」にそのリスクを持ち込みたくない。自分と違う人間と暮らせば、合わないところが出て来るのは当然で、それを致命的なものにしたくない。お互いを尊重しながらすり合わせをして、そのことを心から「これでいい」と思いたい。そして私は、それを恋愛関係にある相手と成し遂げる自信がない。自信もないし、こんなにだらだらと文章を書いてしまうくらい、そもそもそれが可能なのかを疑っている。疑いながら「それでも」と恋愛結婚に踏み切ることは、少なくとも今の私にはできない。

 

でもまあ、恋愛結婚でうまくやってる人が多いのも事実で、むしろそういう人たちにはなんでそんなことができてしまうのかじっくり話を聞いてみたい。そうしたら、私の心の奥底でまだ完全には消えていない恋愛結婚への憧れも、身の振り方を決めてくれるかもしれないし。