煉獄日記

目指せ天国。

結婚をしたいのかもしれない①

夕食前にオレンジを切っていたとき、まな板を使わず無精していたために指を切った。切った瞬間は気づかないほど、ほんの少し。そしてオレンジだと思っていたものを二つに割ったら、グレープフルーツだった。

この時、「あー、結婚したい」と思った。

つまり、今の私がしたい「結婚」とはこういうものだ。そばにいるか、後で帰ってきたパートナーに「ちょっと聞いてよ」と話をしたい。笑われるかもしれないし、まな板を使わなかった無精をとがめられるかもしれない。どんな反応でもいいので、そういう些細な感情と出来事を日常的にシェアする相手が欲しい。

 

でも、今わたしがこうして想像している結婚は、たぶん世間で言う結婚とは少し違う。なぜなら私が考えるパートナーは女性で、しかも恋愛関係にない相手がいい、と思っているから。

 

少し前に能町みね子『結婚の奴』を読み、思うところがありすぎたというか、何年もかけて考えてきたいろんなことが記憶の中からほじくりかえされてごちゃごちゃしているので、気が済むまで久しぶりにブログを書くことにした。ツイッターじゃ短すぎるし、誰かにわざわざ聞いてもらう気にはさすがになれない。

 

「恋愛関係にない女性と結婚したい」という一見突拍子もない結論にたどり着くまでの経緯はとりあえず置いておいて、今回は私の望む「結婚」とはどんなものなのかを書こうと思う。

 

そもそも「結婚」とか「婚姻制度」というものを、私は「家族をつくるための制度」だと思っている。じゃあ家族って何か。それはたぶん、最小単位の相互扶助コミュニティだ。

一番わかりやすい例でいえば家事の問題。一人で一人分の家事をするのと、二人で二人分の家事をするのとでは、圧倒的に後者が楽。これは私が経験的に知っていることなので厳密に理由を問いたいとは思わないけれど、大きく分ければ家事という作業の性質と、「人のため」に働くやりがいの問題だと思う。料理も掃除も洗濯も、一人分だろうと二人分だろうとたいして手間は変わらない。そして、自分一人だったら「どうにでもなれ」と思ってしまうことでも、その家事によって喜んだり満足してくれたりする相手がいるならちょっとやる気が出る。効率がいい。

もう少し非日常のレベルで言えば、小さな緊急時にも助け合いたい。「小さな緊急時」っていうと矛盾しているようだけど、つまり風邪をひいたとか、仕事が一時期だけ死ぬほど忙しいとか、もっとシンプルに「今日はどう頑張ってもやる気がでない」とかだ。家族(夫婦)のいずれかに負担が偏りすぎないかぎり、こういう時に助けてもらえるのはありがたい。そして、助けてもらえるだろうという安心感が心身の健康にもたらす影響は計り知れない。

「助けてもらえるだろうという安心感」というのはもっと大きな事にもあてはまる。失業、大病、介護、育児、そういう時に自分と同じかそれに近い覚悟でその事態に臨んでくれる人がいたら、いや、実際にどうかよりも、少なくともそういう人がいると信じられたら、どんなに楽だろうと思う。風邪ひいたからご飯買ってきて、くらいなら友達や同僚でもどうにかなるかもしれない。でも、失業したから数か月養って、とはさすがに言えない。少なくとも私は言えない。ちなみに私は親とも関係がいまいちなので、親にだって言えない。親に助けてもらうくらいなら死のうと思うかもしれない、本気で。

話が物騒になった。でも、この安心感、「セーフティーネット」ともいえるものは本当に重要だと思う。二十歳くらいのころ、色々な事情が重なって週6~7でバイトしながらぎりぎりで生きていた時期があった。この時に一番きつかったのは、休めないことそのものよりも、休んでしまったらお金がなくなって生活できない、という危機感が常に頭の片隅にあって気が休まらないことだった。二十歳といえば普通に考えて人生で一番体力がある時期で、週7でバイトしている元気な大学生も周りにちらほらいた。でもいざとなれば実家や親という切り札を持っているのと持っていないのとでは、週7で働く意味も負荷も全然違う。精神的ストレスが身体的ストレスにダイレクトに影響することを私はこの時学んだ。

私が思う結婚の価値は、つきつめればこのセーフティーネットの考え方に行きつくだろう。人生のチームメイトとでも言える存在。そういう人が欲しい。

 

あと、多くの人が結婚と切り離せないものとして、子どものことを考えるかもしれない。私は今のところ、子どもを産みたいとは思っていない。正確に言えば、欲しい気持ちはあるけれど、妊娠出産育児に体力的に非常に不安がある(とにかく私は体が弱い)、生まれてきた子を自分とは別の個体として尊重できる自信がない、と言った理由で当面は無理だな、と思っている。でも、実は自分の血のつながっていない子であれば育ててみたい気持ちもある。

だから自分のパートナーとなった人が子どもを持ちたいと言えば全力で応援するだろうし、許されるならば父親だか母親だかはわからないけど「親」としてその子を育てると思う。これこそ個人的な理由で、親子の関係を血縁に求める言説を心底嫌悪しているので、むしろ「うちの子」だけど血縁はないという状態は理想的に思える。

まあ子どもに関して言えば「いたら楽しそう」くらいにしか今のところ思っていないので、どうでもいいっちゃどうでもいいのかな。

 

たまに思うのだけど、私の望んでる結婚って姉妹の同居にかなり近いのかもしれない。残念ながら私はひとりっ子だし、そもそも姉妹がいたところで気が合うかわからないので、「姉妹の同居」なんてものは妄想の域を出ないんだけれども。でも、姉妹なら「家族です」って言い張らなくても家族だと容易に周囲から認めてもらえるし、もちろん恋愛関係になくていいし、それこそどちらか(または両方)がシングルマザーで同居していてもそんなに違和感がない。私は、それを気の合う女友達とやりたい、と思っているだけだ。

おそらく「世間の人」というのは、そこまで助け合いたいと思えるのは相手を(性愛的な意味で)愛しているからだ、と信じていて、だからこそ恋愛をして結婚をして、という手順をせっせと踏んでいくのかもしれない。知らんけど。いやほんとに、知らんけど、という感じだ。大恋愛の末に結婚したはずが、人生の「病めるとき」が訪れた結果別れてしまう夫婦なんて星の数ほどいる。反対に、親の決めた結婚でもそれなりに助け合いながら添い遂げる夫婦もいる。その中には(性的関係はあったとしても)必ずしも恋愛的愛情を持った人ばかりじゃないだろう。そう考えたら、別に友達でよくない?と思う。むしろ、気が合うし大事だし信用できる友達の方がよくないか?それで「病めるとき」にうまくいかなくなったら、それでいいよ。そんなの普通の夫婦と同じことだよ。

 

性愛の問題と、女性相手がいい、という点についてはまた改めて書こう。

約三年ぶりの更新らしいですが、その間に私は30歳になり、ふらふらと日本を出てアメリカで暮らし始めました。