煉獄日記

目指せ天国。

とりあえずピリオド.

5日連続で私の思う「結婚」について書いた。これの前の5つの記事(「結婚をしたいのかもしれない①~⑤」)がそれなので、もし可能であればそっちから読んでもらえると嬉しい。書きなぐった、とでも言うべき速度でほとんど推敲もせずに書いた。だからといってその内容は決して「つい最近思い付きました」というものではない。二十代の十年間、もしくはここまで生きてきた三十年間で必死に考えてきたことを、やっと形にできた。 

桃の死や、アメリカへの移住といった「書ける」ようになった要因はいくつかある。その一方で、今しか書けないかもしれない、今書いておかなければならない、という焦りも同じだけあった。最後にその思いも含めて、やはりこの一連の記事を書くうえで私の背中を押してくれた『結婚の奴』(能町みね子平凡社、2019)の感想を書いておこうと思う。

 

まず何より、私はこの本が好きだ。ウェブ連載の頃から好きで、本になっても好きで、読み返してもやっぱり好きだ。文章のリズムや言葉遣いも好きだし、なんなら装丁まで好きだ。でもそれ以上に、この作品が本として世に出たということを、私はとてもとても喜ばしく思っている。

それはもちろん能町さんの文才とこれまでの積み重ねがあってのものだけれど、極端な話、もしも社会が戦前の家父長制ごりごりな風潮を引きずっていたら、おそらくこの本が出版までたどり着くことはない。検閲にひっかかるかもしれないし、そもそも商業的成功が見込めないからと出版社が動いてくれないかもしれない。私よりちょうど10歳年上の能町さんがこれを書き、それが本となって読まれ、共感の度合いは人それぞれとはいえ、結婚している人からしていない人までいろんな人に「なるほどなあ」と思われていることが嬉しい。「恋愛関係にない女の子と結婚したい」という思いを、もう長い間おっかなびっくり表に出したりひっこめたりし続けていた私にとって、力強い味方ができた気持ちだった。とても勝手ながら、同志のような気分になった。

この本が著者個人の特異な結婚体験記にとどまっていない理由は、その中心に「世間」に対する憎しみと信頼が半々で存在するからだと思う。いや、憎しみ55%、信頼45%くらいかな。その信頼は時にしがらみという形もとっているけれど、恋愛結婚によって幸せに暮らしている人はたくさんいる、という事実を著者は(わずかに疑いをはさむことはあっても)決して否定しないし軽視もしない。「世間」というのは別の言葉でいえば「常識」であり、それが「自分自身にこびりついたもの」(221)だという事実から彼女は目を逸らさない。逃げないし、易々と乗り越えたふりもしない。こういう少し「変わった」恋愛・結婚を語るときに、「私そういう常識とか気にしないので」みたいな態度をとる人は多いけど、むしろ『結婚の奴』はその「常識」との戦いをど真ん中に据えている。

それがとてもよくわかるのが、友人「堀内」との会話。「子供を産まないと、女じゃない」(107)という友人の言葉はたしかにショッキングだけど、それを「彼女が世間に化けて私に迫ってきた」(110)と能町さんは理解する。世間は人を飲み込む。ちょっとくらいのイレギュラーや反抗なんて、すぐ飼いならされる。賢くて綺麗でちょっと憧れるあの子が、いつの間にか平凡で幸福な「奥さん」や「お母さん」になっている。面白くてちょっと斜にかまえてたかっこいいあの子が、就職したとたんに凡庸なサラリーマンになってしまう。(これは私の経験談。)「世間の『常識』の強さをなめたらいかん」(222)。ほんとにそう。

その「常識」の象徴ともいえる「結婚」。だからこそ、夫(仮)との関係を「結婚」だと言い張ることは、とても意味のあることだ。結婚には良い面がたくさんある。『結婚の奴』にも書かれているように、生活をする上で効率がいいし、心身の健康にもいい。もう少し視野を広げれば、(今ではかなり問題含みの権力構造として問い直されているとはいえ)社会の管理や出産育児のシステム化にも結婚は役立ってきた。それはまぎれもなく人類が築き共有してきたひとつの知恵であり、「常識」として私たちの社会に鎮座しているのも故なきことではない。

しかし「常識」がいつだって不完全なことも、それはもはやひとつの常識だ。恋愛と結婚が結び付くこと自体が斬新だった時代もある。それはそれで、多くの人が様々な形で戦って手に入れたひとつの権利だ。でもそれが絶対的な正解である必要はない。変化していい。変化していくべきだ。著者はゲイの夫(仮)との恋愛関係なしの同居を「結婚」と呼ぶことで、社会の周縁から高みの見物を始めるのではなく、その中心にとどまって「常識」を信じる人に疑問をなげかけている。常識にあらがうのは身も心も削られる。時にその抵抗は人を死においやることさえある。でもそれをやめない。些細なものからどうしようもなく根本的なものまで、「常識」への違和感を言葉にし続ける。常識や世間を軽蔑してその外に出てしまったふりをするのではなく、そういう態度が「ふり」にしかなりえない常識の強度を認めたうえで、その中で「幸せ」(≒結婚)の定義を拡張しようともがき続ける。著者としては、そうせずにはいられないからそうしているだけなのかもしれない。しかし、その経験が文章を通して人々に共有されたとき、それに救われる読者は無数にいる。私がその一人であるように。

 

そして、私に論文一本分近い(というか分量的にはそれ以上の)文章を書かせた焦燥感も、おそらくこの「常識」への恐怖からきている。

ちらっとどこかに書いたように、私にはいま一応婚約している相手がいる。現在は時差4時間の超遠距離だけど、それ以前に4年近くお付き合いをして1年間は同棲もした、恋愛関係にある男性だ。

単刀直入にいうと、びびっている。彼の人間性とか相性とかそういう問題ではなく(そういう問題もゼロではないが)、自分が女性として(=性的対象として)愛され、恋愛結婚をしそうになっている、ということがめちゃくちゃに気持ち悪い。そして、怖い。共に生活する相手がいるのはいいことだから、と自分に言い聞かせて同棲していたころは様々なことに目をつむっていた。それが生活拠点が離れたとたん、「やっぱり無理気持ち悪い耐えられないやだやだやだやだ」と心の奥から四年分の不快感が噴き出してきている。

しかしその一方で、もう疲れたから「常識」に乗っかってしまえ、と思うこともある。えいやっと思い切って結婚し、できるだけ何も考えず、共同生活ができるありがたみだけを噛みしめていればいいじゃないか、と。普通は楽だよ、と大人ぶった私がささやく。定期的に女性扱いされるのくらい我慢しなよ、それくらいみんな当たり前にできていることだよ、むしろ愛されてて幸せじゃん、と。そんな変な結婚がしたいなんて言ってたら、ずっとひとりぼっちだよ?家族、欲しいんでしょう?そうやってねちねちと私を責めてくる。ええ、家族、欲しいですよ。ひとりぼっちは寂しいよ。でも嫌なもんは嫌なんだよ!

不安とか自信がないとかそういうことじゃない。嫌なのだ。でもきっと、思考を停止して、自分の中の色んな大切なもの押しつぶせば、「常識」に飲み込まれることも可能だ。やればできてしまう気もしないではない。「結婚しました」なんてツイッターに書いたり年賀状を送ったりしてニコニコしているかもしれない。それはそれで幸せなのかもね。でも、そうなったらこの文章はきっともう二度と書けない。

「婚約の証ね」と言ってふたりで買ったペアリングをこっそり外して約2週間。まだ右手薬指には、線状の日焼けあとがある。

 

これから自分がどういう道を選ぶのか、この件についてブログとかツイッターとかにとどまらず、たとえば研究のようなもっと公の場でも考えていくのか、そもそも私生活をどうするのか、まだ何もわからない。

でも少なくとも、2020年の正月に30歳の私が『結婚の奴』を読んでおおいに励まされたように、未来の私はきっとこの5日間に書いた自分の言葉に励まされることがあると思う。さらに、他の誰かにも「こんな考えもあるのか」と思ってもらえたら、そんなに嬉しいことはない。

社会を変えようなんて大それたことは考えないけど、自分が楽しく気持ちよく生きていける環境を守る努力くらいは、してもいいんじゃないかな。

 

ちなみに結婚についてこんな勢いでブログを書いていて「大丈夫?」と思われるかもしれませんが、というかすでに知人にちょっと心配されましたが、大丈夫です。もしくは、この一連の記事を読んで「大丈夫じゃないな」と思われたとしたら、私はもうこの10年ずっと大丈夫じゃないです。

あー、すっきりした。