煉獄日記

目指せ天国。

言葉の壁と扉と鍵と

“Please, Madame, do not equate my lack of speech with a lack of thought.” (153)

 

この一文を読んだとき、思わず泣きそうになった。小説の一節だけれど、これが物語の転換点になるとか、ここがクライマックスだとか、そういうことじゃない。とても単純に、今私が感じていることをあまりに的確にあらわす言葉で胸を打たれた。

ベトナムアメリカ人作家Monique TruongのThe Book of Saltは、ベトナム人でゲイの料理人ビンが、パリに暮らすアメリカ人ガートルード・スタインとそのパートナーであるアリス・B・トクラスに仕え、その経験を過去の物語をまじえながら内的独白で語るという小説だ。上の一文の出典でもある。研究の面ではビンのクイアネスという視点から語られることが多いようだが、私にとってこの小説は言葉の通じない異国で暮らす異邦人の経験を鋭く描いた作品としか思えなかった。

それくらい、私は今の生活にフラストレーションを抱えている。

 

日本人全体という非常にざっくりした括りで見れば、私はかなり英語が「できる」方なのだと思う。修士に入ってから今までずっと英語の小説や論文に触れる生活をし、高校時代の一年間と30歳になってから今日までの半年間は英語圏で暮らし、どうにかこうにかではあるが大学院の授業にもついていってる。英語でしかコミュニケーションのとれない友人もいる。病院の先生とだって英語で会話をしている。我ながら、よくやってると思う。

それでも、やはり外国語での暮らしはつらい。もちろん前に書いたように、「外国人」として色んな暗黙のルールを無視して気楽に生きているというのも嘘じゃない。今の生活を気に入っているというのも本当だ。でも、言葉を奪われた生活は、まるで自分の考えも経験も記憶もすべてが矮小化されるような、自分自身がとても小さくなってしまうような、耐えがたい経験であることに変わりはない。

 

現実の私を知らずこのブログだけ読んでいる人(そんな人はおそらくいないけど)は、私が饒舌な人間だから外国語での暮らしがそんなにつらいのだろうと思うかもしれない。しかし私は、それほどおしゃべりな方ではない、と少なくとも自分では思っている。二人きりならともかく、大人数でのコミュニケーションがそもそも苦手なので、グループでの会話ではほとんど黙っている。根は無口な人見知りだ。

それでも、それこそこのブログを見ればわかるだろうが、私は言葉や言語が好きだし、言葉で何かを表現するという行為を自分にとってとても大事なものだと思っている。だからこそ英語で/英語をここまで学び続けているという部分もある。異国で暮らせば、いろんなことを思う。人の空気が違う、太陽の光が強い、鳥たちがかわいらしい、花が美しい。しかしそういう心の底から出て来るような思いに、私はまだぴたりとくる英語をはめることができない。伝わった“ような気がする”くらいのコミュニケーションが限界。

プルメリアの花を「美しい」というのは簡単だ。しかしあの花と枝の力強さ、花びらの純粋すぎるほどの白さ、黄色と白のコントラストが織りなす太陽のような明るさ、そういうものは何一つ伝えられない。そして、片言の英語で説明したところで、そこに言葉で世界を捉え描く喜びはない。

もっと俗なレベルでもこんなのは日常茶飯事。大学院の授業で思うことはたくさんあっても、言いたいこと(思考力)と言えること(言語力)の差が激しすぎて、結局何か言いだしたところでしどろもどろになって終わる。これは云わば自分の「本業」であり、人からの評価に直結する出来事なのだと思うと、本当に悔しい。

だからこそ、The Book of Saltの一節には、深く深く共感した。

どうか、私の沈黙を私の愚かさや無理解、無関心と思わないでください。そのことが伝わるよう願いながら、それをわかってもらえるよう必死に英語で書いたり話したりしながら、毎日のようにもどかしい思いをしている。

 

なんでこんなに苦しいことをずっと続けているんだろうとはたまに思う。でも、私はその答えを知っている。楽しいからだ。

たとえば冒頭の一節、翻訳では次のようになっている。「奥さま、わたしがものを言わないからといって、何も考えていないなんて思わないで下さい」(214、小林富久子訳)。違う。何かが違う。決定的に違う。

訳者を責めているわけではない。意味が正しいのはもちろんのこと、ニュアンスも良くとらえた訳だと思う。ただ、翻訳とはこういうものなのだ。そして私はそのことを、ちらりと英語の世界を覗いた高校生の時に知ってしまった。この世に翻訳可能なものなんてない。英語の世界は英語の世界の中にしか存在し得ず、それは日本語に置き換えたとたんにその生気を失ってしまう。

こんなに「英語ができない」と文句を言っている割に、英語で生活する時間が長くなり、英語で吸収する物事が増えるほど、私の中には「英語でしか言えないこと」が着実に積み重なっている。それは自分の中に新しい世界が生まれるような感覚。もちろん日本語で暮らした約30年というのはあまりに大きく、ちょっとしたことならすぐに日本語がすすすっと心の中に現れて私の気持ちを日本語に置き換えてしまう。それでも、Truongの小説の一節のように、翻訳しないまま抱きしめていたいような言葉が時折とびこんでくる。そういう経験が、私はやめられない。

 

このブログのID(?)の元になった詩も、10年ほど前に初めて出会ったときから私の心を捉えて離さない英語のひとつである。

 

Longing is the core of mystery.

Longing itself brings the cure.

The only rule is, Suffer the pain.

 

Your desire must be disciplined,

and what you want to happen

in time, sacrificed.

 

これを書いた詩人のことも、この詩が書かれた背景も、ほとんど全く知らない。下手したらこの元々の詩は英語じゃない可能性すらある。それでも、私はこの詩を意味も言葉もリズムもひっくるめて好きになり、もう長いこと事あるごとに英語でぶつぶつと暗唱してきた。英語を全く知らない人に意味の説明を求められたら大雑把な訳くらいはするかもしれないけど、それ以上の翻訳をしようとしたならば、私はその行為をこの詩に対する「冒涜」のように感じてしまうだろう。

 

今日の授業では、"You did a good job!" とThe Book of Saltに関する発表を終えたあと何人かのクラスメイトから言ってもらえた。「お疲れ様」とも「良かったよ」とも違う、アメリカ人の誉め言葉。

たとえそれが「お疲れ様」とか「良かったよ」と同じような定型文であり同じような意味の重さしか持たないとしても、そのまっすぐな誉め言葉が私は好きだ。そしてもちろん、これも日本語には絶対翻訳できない言葉。

 

“Language is a house with a host of doors, and I am too often uninvited and without the keys. But when I infiltrate their words, take a stab at their meanings, I create the trapdoors that will allow me in when the night outside is too cold and dark.” (155)

 

そのこじ開けたドアの先の世界を、私はまだまだ覗きに行きたい。