煉獄日記

目指せ天国。

罪悪感の行方

"Silence is complicity" という言葉を少し前に友人のSNS投稿で見かけた。
"Silence is complicity"、直訳すれば、「沈黙は共犯」。

 

初めて学術雑誌に載った論文のタイトルに、私は「沈黙の罪」という言葉を入れた。
人種差別を目の前で目撃しながら抗議することができず傍観者になってしまったことへの罪の意識、その罪の意識が掘り起こす自身のトラウマ、過去がフラッシュバックしてばらばらになりそうな自己。そういった点について、ある日系作家の短編をテーマに論文を書いた。

短編の主人公、そしてその作家が感じていた恐怖心、ためらい、罪悪感。
少しでも罪の意識を晴らそうと、自分の責任を果たそうと続けた執筆活動。
そういう彼女が抱えた感情の揺らぎすべてに私は魅かれ、ある意味それに対する私個人の応答として書いた論文だった。

 

そしてまた数年ぶりに直面した "silence is complicity" の言葉。
その言葉の意味について、私がとるべき態度について、まったく答えの出ないままちくちくと罪の意識を感じながら考え続けている。

SNSの発達やここ数か月の外出自粛も加勢して、最近はTwitterでの抗議行動や特定の活動への支持表明をしばしば見かける。
日本国内なら検察法改正の問題や、伊藤詩織さんの件、世界的にはBlack Lives Matterなど、多くの人が不正に対して声をあげ、ハッシュタグを通して連帯しようとしている。
その盛り上がりに漠然とした居心地の悪さを感じながら、私はただTwitterのタイムラインをスクロールしていた。

それらの運動に反対なわけじゃない。それどころか、検察法改正には反対だし、伊藤詩織さんのことは応援しているし、BLMだってアメリカの根深いレイシズムを正そうとする重要な運動だと思っている。
でも、「私はそれを支持します」と公に(といってもTwitterだけど)言うことができない。こうやってあまり人の見ていないところでもごもご言うのが精いっぱいだ。ある活動に賛同する気持ちを持つことと、その思いを表明すること。その二つの行為の間に、私は乗り越えがたいほどのギャップを感じてしまう。

たとえば目の前にいる人が「あなたは私の味方なの?」と尋ねてきたら、「そうだよ、私はあなたの味方だよ」と言ってあげたい。
だけど「じゃあみんなにそれを宣言して」と言われたら、私はきっと押し黙ってしまう。たとえそれが、「沈黙の罪」と見なされたとしても。

 

"Silence is complicity" の文字を見てからこんなに悶々としているのは、そこでなぜ自分が「沈黙の罪」を犯す方を選んでしまうのかがどうしてもわからないから。

はじめは私が臆病だからかなと思った。臆病だから、自分の立場を表明することで「敵」ができてしまう可能性に怯えているのかな。たとえ「敵」のような人から攻撃されることはなくとも、自分の表明した立場のために誰かから見放されたり距離をとられたりすることを怖れているのかな。
でもよく考えたら私は私一人の問題に関しては割と平気で意見も言うし敵も作る。その結果人が離れていっても「ご縁がなかったね」とか言っててあまり気にしない。それが他者の問題や自分に差し迫ってはいない問題になったところで、突然あんなにもハードルが上がるとは思えない。

それとも、自分の意見に自信がないからだろうか。先に挙げたいくつかの例に関しても、その内容に強く関心を持って自主的にリサーチをしたとは言い難い。Twitterで見かけた記事をいくつか読んでみた程度だ。「この程度の知識で発言してよいのだろうか」という気持ちがゼロとは言えない。
Black Lives Matterに関しては今学期の授業で関連する記事や論文を読んでいるので、今回の運動の盛り上がり以前からその存在は知っていた。だからと言って十分に理解しているとは言い難いけど、その活動の趣旨については反対の余地がないのでは、くらいに思っている。それでも何も言えない。

それで思い出したけど、授業でBlack Lives Matterを扱った時も、私はとても居心地が悪かった。アメリカ人らしく(というのは偏見だけど)はっきりと人種差別への怒りを言葉でも態度でも表現するクラスメイトたち。それが怒るべき事態であると頭では理解できても、怒っている彼らを見るとその怒りがどことなく空虚なものに思えて、怒りの感情が渦巻く教室の中にその思いを共有できない私は身の置きどころがない感じがして、なんとなく下を向いて時間をやり過ごしていた。

おそらくこれは、「連帯」に対するアレルギー反応のようなものなのかもしれない。私は心のどこかで、共感や共闘は他者の感情を奪い去る行為だと思っている節がある。だから苦しんでいる人の話を真剣に聞くことはできても、「わかるよ」と言ったり、その人ともに泣いたり、ましてその人の代わりに怒ったりすることはできない。それは他者の苦しみに対する安易な代弁か、他者のためのふりをした自分の感情でしかないのではないかと思ってしまう。
もちろん考えも目的もばらばらな人たちがひとつの目標を設定して一時的に連帯することは有意義で力強い行為だし、それが人を救ったり社会を変えたりすることはある。それは確実にある。でもじゃあ自分がその連帯の輪の中に入れるかと言ったら、その連帯自体が他者に対しても自分に対しても個人の感情をないがしろにする行為に思えてしまう。

なんか、結局、いろんな意味で臆病なだけかもしれない。

 

"Silence is complicity" という言葉を見かけてからもう二週間近く、考えてはこのブログをちょろちょろ書き、考え直しては書き直し、さらに考えて書き加え、みたいなことをずっと続けていた。
でもやっぱりわからない。連帯や共闘、そして共感の力を頭ではわかっているからこそ、 "silence is complicity" という言葉に罪悪感を覚える。
なのにいざ行動を起こそうとすれば、「それはやっちゃいけない」という変なアラームが頭の中で鳴り出す。本当にそっちの道を選んでいいのか、それはただの一時的な自己満足なんじゃないのか、と自問自答が止まらなくなってしまう。

私が今学んでいる分野では教授たちを見ても院生たちを見ても、私のこういう態度があまり歓迎されないもの、少なくとも主流じゃないものであることはわかっている。今はこうしていち学生としてくよくよしているだけだけど、それが許されなくなる日がいつかは来るかもしれないなとも思ってる。
まだ答えは出ないし、自分が結局どうしたいのか、どうするのが自分のためにも他者のためにも良いのかわからないけど、きっとこの件はもうしばらく考え続けるんだろうな。
これは、とりあえず今の時点での記録ということで。