煉獄日記

目指せ天国。

マウナケアから沖縄へ

数週間前、久々に皆既月食があったらしい。ハワイ時間だと真夜中だったから、「まあいいか」と寝てしまった。でもTwitterを見ながら、なんか盛り上がってんなーと思っていた。

なんか盛り上がってんなーと思ったついでに、相変わらずTwitterではあるけれど、ちょっと何がどうなってるのか調べてみた。

え、ハワイからYouTubeで動画配信?
へー、まあハワイからとかみんな好きそうだもんね。
日本の「すばる」って望遠鏡があるんだ、知らなかったなあ。

ここまではよかった。でも、このあと「マウナケア山」の文字を見て目を疑った。

 

ハワイに来て、ハワイの大学院で学んで、約二年が経った。

「マウナケア」という言葉は、ハワイに来て最初に出会ったなんだかよくわからない単語のひとつだった。「ケア」って "Care" かなぁ、社会保障かなんかの話かなぁ、でも出てくる文脈がちょっとおかしいなぁ、なんてのんきに思っていた。

そのうち何かの拍子にようやくハワイ島にある山の名前だと知り、同時にそこで何が起こっているのかも知った。

マウナケアはハワイ州にある最も標高の高い山。その標高から、天体観測にとても適した土地らしい。だから、望遠鏡が建つ。アメリカだけでなく、日本を含む数か国も望遠鏡を持っているし、現在ではTMTというやたらどでかい望遠鏡を建てる計画もある。先日の皆既月食で日本に動画配信するために使われた「すばる」もこのマウナケアにある。

しかしこの山は、ネイティヴ・ハワイアンにとっての聖地でもある。
250年ほど前にクック船長がやってきて、その後も続々と白人が入り込み、白人たちに連れられて(あるいは自主的に)アジア人も流れ込み、最終的にアメリカの州になったハワイ。でもその前には、ネイティヴ・ハワイアン独自の文化が何世紀もの長い時間をかけて発展してきた。
私も正直あまり詳しいとは言えないけれど、このハワイ独自の文化にとって土地は最も大切にされてきたものといってもいい。きっとこの感覚は日本人にとってそれほど理解しがたいものではないと思うけれど、狭い土地で長く生きる、つまり持続可能な生活を続けるためには、土地とうまく付き合わなければいけない。たとえば津波地震が多く、山地の割合も高い日本で、それらをすべて無視した生活をすればあっという間に人は生きていけなくなる。私がこの2年間で感じてきたハワイの文化というのは、そういう土地を大切にする、そのために(というかその結果自然と?)土地や動植物が神聖化される、そういう文化だ。

そして、その中でもマウナケア山というのは、とりわけ神聖な場所。

私がハワイに来てから、皆がなんだか怒りを込めてマウナケアの話をしていたのは、先に言ったTMT建設への反対運動のことだった。

このブログを書くならちょっと調べるか、と思って読んだいくつかのニュース記事には「先住民(団体)」が反対していると書いてあったが、そんなもんじゃない。少なくとも私の周り(つまり人文系大学院関係者)では、人種や出身地にかかわらず、多くの人がアメリカ(や日本やその他の国々)の横暴にはっきりと反対の意志を表明し、少なくない人数の知人や友人が現地での建設反対デモにも参加している。

私はと言えば、人の熱気や怒り、たとえそれが正当なものであろうとなかろうと、そういうものに触れるのが苦手すぎて、本当に体調を崩してしまうような貧弱な人間なので「そうなのかあ」とぼんやりその様子を見ていた。当然ながらデモには参加してないし、教室内でその話題が出たときですら、ちょっとうつむきがちな感じでやりすごしている。無責任にもほどがある。

でも、この場合わたしの「責任」って何だろう。
私はハワイ出身でもないし、一時的にハワイに住んでいるとはいえあと5年もすればきっとここを離れる。ハワイに関する研究をしているわけでもない。あえて言うなら、人文学のいち領域としてアメリカを研究する者としての責任?
こんな広くて難しくてぼんやりしている問に答えが出るはずもなく、私は居心地の悪さだけを感じながらこの2年間をやり過ごしてきた。

 

でも、そんな風に「わっかんねぇなぁ」とか言ってたのに、この間の皆既月食のニュースで「マウナケア」の名前を見たとき、ものすごく心がざわついてしまった。

少なくともTwitterで見る限り(他のものも見ろよ、という点はともかく)、個人も、Webメディアも、新聞社の記事でさえも、「ハワイのマウナケアにある望遠鏡『すばる』からの動画配信」をほとんど浮足立って伝えていた。
マウナケアがハワイの文化にとって神聖な場所であること、そこがまさにその「すばる」をはじめとする望遠鏡建設によって壊されつつあること、ハワイに住む多くの人、最近ではハワイ以外の土地に住む人でも、本当に多くの人がそれに怒り建設を止めようと必死の努力をしていること、そういったことは結構しっかり新聞社の記事を見たけれど、たったひとつの記事も、完全に、誰も、何も、触れていなかった。

もちろんそれについて誰も責める気はない。そもそも皆既月食のニュースだし、知らないもんは知らないんだから。ていうか、私だって「マウナケア」が山だと知るまでに何か月もかかったくらいなんだから。

でも、それでも私の心はざわついた。私が驚いたのは、むしろこの自分の反応の方。
今までどんな土地にも愛着を持ったことはなかった。特に個性も何もない千葉のベッドタウンで生まれ育ち、大人になってからは東京近辺をふらふらひとり暮らし。「好きな街」とか「住みやすい街」とかはあっても、「この場所、この土地が大切」という感覚には無縁だった。それどころか、その感覚が最も得にくく無常にすべてが流れていくような場所であるがゆえに東京が好きだと昔も今も思っている。

なのに。マウナケアをただの観光地の素敵スポットとしてしか見ない情報のかたまりを見て、私が感じたのは心のざわつきであり、とても大きくその感情をくくれば、怒りだった。
確かに私はぼやぼやしていただけだけど、それでも私はマウナケアについて真剣に考えて怒って泣いて行動している人たちを見てきた。ただ傍にいただけだと言われれば確かにそうだけれど、それでも、私は彼らの存在と感情に触れてきた。

 

そんな自分のささやかだけど大きな変化に驚いていたら、自然と沖縄のことが頭に浮かんできた。

なぜかさいきん沖縄のことに興味津々で、まあその理由は、沖縄に親しい友人がいるとか、その友人から色んな沖縄の現状を聴いているとか、学期末のペーパーに沖縄の演劇『人類館』を選んだとか色々あるんだけど。

でも、そういう色んなものが、色んなものっていうのはつまり、沖縄の人たちが沖縄という土地で生きてきて、そこの文化と歴史を抱えて今も暮らしている(そしてその中にはとうぜん差別や基地の問題が含まれる)という事実を、なんとなく肌で感じるものとしてとらえ始めている自分がいる。
きっと昔の、つまりハワイに来る前の私だったら、単なる知識としてそういうものを見ていたと思う。でも今は、沖縄で起きている様々な出来事を知った時に、自分の感情が動き、動揺し、どうしたらいいかわからないようなところに置かれる瞬間が訪れる。

アメリカ帝国(沖縄の場合は日本も)に文化・歴史・土地をめちゃくちゃにされてきたという共通点だけで、沖縄とハワイを並べて見てしまうのは確かにあまりにも短絡的だと思う。もちろん共通点は多い、だけど違う。

じゃあなんでその二つの土地が私の中で結び付いたのか。
それはおそらく、私の立ち位置の問題なんだろう。

授業中、盛り上がる議論を聞きながらうつむいていたこと。デモという行動にはきっと一生参加できないこと。そもそも、どんなものを目にしても経験しても「怒る」という反応をできないこと。だから、直接的に彼らの「役に立つ」ような行動はきっと何もできないこと。

それでも、その土地を愛し、守ろうと懸命に努力し、抵抗し、そうやって暮らしている人がいることを私は知っている。彼らの言語や文化は正直よく知らないけれど、そしてそのことにまた申し訳なさや気まずさを感じるけれど、それでも、彼らがそれを大事にしようとしている、その想いの強さや深さを肌で感じている。

これはもう、「他人事」じゃない。でも、絶対に「自分事」ではない。
「自分事」のように捉えてうかつな代弁者になることは、何よりも罪深い。
じゃあ、私はなにものなの?

そのはざまで感じる、自分がどうしたらいいかわからなくなるような、身の置き場を失うような、気まずくて、居心地が悪くて、そして申し訳なくて恥ずかしいような、そういう気持ち。
おそらく私がハワイと沖縄の共通項として見ているのは、そういう自分の立ち位置の方なんだと思う。

 

Indigenous Studiesという分野がある。日本語にするなら「先住民研究」といったところか。アメリカならネイティヴ・アメリカンネイティヴ・ハワイアン、日本なら沖縄やアイヌの人々を対象とした学問分野。彼らの文化を学ぶというより(それもあるけど)、彼らの文化や土地が世界的な文脈の中でどう扱われ、その状況をどう乗り越えるべきか、といったことを学ぶ。

苦手だ。とても、苦手だ。

そういう議論をするときに必ず出てくる言葉として "positionality" という言葉がある。単純に言えば、その問題や人びとに対してあなたはどういう立場をとるの、と問う言葉。たとえばハワイなら、日本人は植民者であり、でもアメリカから差別された者であり、もっと個人的なレベルでも、私は留学生であり、人文学の大学院生であり、おそらくセクシュアリティはマイノリティに分類され、今も東京を愛している。そういう色々をひっくるめて、あなたは、他の誰でもない「あなた」は、ネイティヴ・ハワイアンの問題とどう向き合うの?そう問いかけるのが "positionality" という言葉。

けっきょく私は、この "positionality" をどうしたらいいかわからずにいて、いや、包み隠さず言えば、決めるのが怖くてぐずついているのだ。
なんとなく「これが私のpositionality」って断言してしまったら、思考のどこかが止まってしまう気もするし、かといってあやふやなまま研究をするのは倫理的な疑問が生じる気もする。決めなければいけないのだろうか。それとも、決められない自分と向き合い続ける、それでいいんだろうか。
今のわたしには、それすらもわからない。

 

この間、アメリカ本土の大学院に留学している友人と話しながら、ぽろりとこんな言葉が口から出た。

「大学院留学で、まさかその『土地』に影響を受けるとは思わなかった」

ハワイに来て、ハワイで学んで、そうでなければ知らなかったことを知り、見えなかったものが見えはじめた。そこから影響を受けて、研究テーマにまでそれが入り込んでくる。土地への愛着なんて想像もできなかった私が、まさに今ハワイという土地に影響を受けている。それはもはや、否定しがたい体感として私の中にある。

とはいえ、この気持ちは当然ながら(残念ながら?)愛着ではない。でも、この土地で暮らさなければ知ることのできなかった何かを、私は今自分のなかにとりこんでいっているのだなと思う。

 

いつの間にか、マウナケアの望遠鏡も沖縄の基地問題も、「他人事」でも「自分事」でもなくなってしまった。ほんとにもう、想定外にもほどがある。
私はきっと、いつまでもこのぐずぐずした気持ちを抱えながら、暮らしたり、研究したり、ため息ついたり、たまにちょっとだけ怒りのようなチクリとした気持ちを感じていくのでしょう。
とりあえず今は、そんなところにとどまってみる。