煉獄日記

目指せ天国。

容量のムダ使い♡

最近、本が読めない。
本と言っても、英語の研究書の話で、日本語の研究書ならぎり読めるから、「本が読めない」というのは不正確かもしれないが、とりあえず今わたしが読まねばならぬ「本」はほとんどすべてが英語の研究書なので、気持ちとしては「本が読めない」で正しい。

具合が悪いと本が読めない。でも、それにもいろんなバリエーションがある。いろんな「具合悪い」があって、いろんな「読めない」がある。

あまりにも本が読めなくてくさくさしているので、いっそ本が読めない自分を観察して分析してやろうと思った。

 

「具合悪い」の中でも諦めがつきやすいのが、動けないやつ。
単純にベッドから起き上がれない。机に座れない。本を持っているのもしんどい。それでも強引に机で本を読んでいる姿勢をとれば、まぶたが落ちてきたり、もっとダイレクトにチックが出たり、とにかく身体が本を読ませてくれない。ちなみに、ベッドで横になって読もうとしたって、やっぱりチックが出て読めない。視界に文字が入ってこない。
もうこうなったらどうしようもなさすぎて、本なんか放り出して寝る。最近1ヵ月くらいがこれだった。

 

諦めがつきにくい「具合悪い」が、頭が働かないやつ。今これ。
これは「具合悪い」より「読めない」が際立つ。文章が理解できないというか、文章がmake senseしてくれないというか、とにかく奇妙な感じ。とりあえず目の前に本を開いて目を通すという動作まではできるのに、わかるはずの内容がわからなくなるから、今読んでいる本が極端に難しいのか(そういう場合は実際ある)、自分の英語力が突然落ちたのか(それは眠い時に起こる)、それともそれ以外の何かなのか、判断がつかないまま同じページの同じ行を右へ左へ視線をふらふらさせてしまう。

視線をふらふらさせながら、その「読めない」にはいくつかの原因というか症状が複合的に現れているなとふらふら思った。

まず、記憶力がめちゃ下がってる。前の単語覚えてない。覚えてないというか、本当に全部が右から左で(紙の上では左から右だけど)、単語ごとに意味を把握しては忘れて、把握しては忘れて、文章が終わるときには何も残らない。

ぎりぎり単語の意味を脳みそにキープしても、論理的な思考力が全然働かなくて理解できない。「AだからB」と言われても、それがなんでなのか理解するためにAを見直しBを見直しぐるぐるした挙句「とにかくAだからBってことにしとくか。。。」と理解3割諦め7割で進むことになる。

そして、視線はふらふらしてるって言ったけど、変なところにばかり注目してしまう。ものすごく基礎的な単語(be動詞とか)や、その文脈では重要性がほとんどない単語(「先行研究」の意味の "literature" とか)ばかりが頭に入ってきて、肝心な部分に目がいかない。

さらに、なぜその単語かはわからないけど、ひとつの単語に突然目が留まって全く何も繰り返されてないのに勝手にゲシュタルト崩壊を起こす。今日は "concept" という単語でそれが起こって、紙の上でアルファベットが躍り出しそうになってた。

 

とまあ、こんな状態なので、読むのにえらい時間がかかる。繰り返し読んだり、声に出したり、まめにメモをとったり、七転八倒しながらのろのろと読み進める。で、読み進めたと思ったらその前のところが何だったかわかんなくなってるもんだから、もういやになっちゃうねー。

今日の記録は30分で5ページ。それだけ読んだらもうへろんへろんでギブアップ。なんてこった。

 

最近、アニメ版のHUNTERxHUNTERを見ていたら、ヒソカがナイスな顔で「容量(メモリ)のムダ使い♡」って言ってた。

主治医に幼少期の話をしたら、簡単に言えばヒソカの言うメモリの無駄遣いがわたしの脳内で起こっているのだろうという結論になった。脳内で過去のトラウマを必死に処理しまくってて、本を読むほどのメモリが残ってないそうで。

確かにこの一年は、慣れないことに追われて忙しかったという意味でストレスはそれなりにあったけど、ストレスの度合いと体調不良の度合いがあまりにも不釣り合いだなと思っていた。この一年にあったことは、ストレスというより、トリガーだったんだなと考えたらとても納得がいった。確かに、トリガーどころか、これまで避けて逃げて抑え込んできたもの全部を蓋開けて頭突っ込まれたみたいな一年だったからな。

治療方針も変わったことだし、これからショート寸前の脳みそがどうにか復活して英語論文を理解できるレベルまで働くようになってくれるといいけど。

 

ハワイの生活も研究も大好きなものだらけなんだから、そんな現在を楽しむために脳のメモリを空けていきたいですね。

犬しか愛せないわけではない

私は夫のことをゴールデンレトリバーだと思っている。
人懐こくて、だいたい誰にでもしっぽをぶんぶんしている、もふもふのあれ。かわいい。夫、実は人間だから、あんまりもふもふではないけど。

それゆえに、私と夫の関係は恋愛関係とは言い難い何かである。
確かにこの一年半くらいのごたごたの中で、夫がゴールデンレトリバーよりは人間のように見えて恋愛と言っても差し支えないくらいの感情を抱いていたことはある。ただ、その感情が前面に出てきたことはない。それは断言できる。

そういう相手だと思ったから、結婚したのだ。

 

家族憲法 第七条 第一項

婚外の恋愛や性行為については介入、禁止をしない。但し、誰かと同居あるいは結婚を望む場合には相談し合意を得る。

 

おそらく、私たちの家族憲法の中でもっとも周囲から理解されにくいのがこの条項。簡単に言ってしまえば、不倫OK条項だ。

これは、周囲の理解を得がたい一方で、周囲の理解無しには成立しない条項でもある。

モノガミー(一夫一婦制)への抵抗として定めたこの条項は、それが問題になるとき必然的に第三者を巻き込むことになる。それにもし私たちがこの家族憲法の存在を明かしていなければ、その第三者を不用意に危険にさらすことにもつながる。
もちろん私か夫が第三者と関係を持ったときに、たとえその第三者が結婚をしていなかったとしても、何かしらのリスクが付きまとうことは事実だ。それでも、そのリスクも承知の上で、私たちはこの条項を家族憲法に入れた。

 

この一年、結婚の報告と同時に私はなるべくたくさんの人にこの不倫OK条項についても伝えてきた。色んな反応があった。応援してくれる人も、眉をひそめる人もいた。
「なぜ?」と不思議そうな顔をされるたび、十分とは言い難い説明をしてきた。

性的に遊びまわりたいわけじゃない。
もちろん「お前だけでは不十分だ」などと言いたいわけでもない。

むしろ、そういう言葉や思考を生み出してしまう「恋愛」というものを、二人の人間(異性間でも同性間でも)が対になっていることが至高の関係性だとする考えを、世にはびこるその恋愛至上主義を、この結婚の核心部から排除したかった。

 

私は、夫と、「家族」になりたかった。

 

あなたがあなたの親や子や姉妹を自身の家族とみとめるとき、そこに恋愛は必要ない。オブラートを全部はがして言うならば、セックスしなくたってあなたはその人たちを自身の家族と認めている。むしろその関係性の中では性的な接触は禁忌とされる。

夫婦という関係だけが、結婚という儀式だけが、ふたりの人間が家族として恋愛や性で結びつくことを肯定し、そこに特権的地位を与える。

そのことがどうしてもどうしても許せない。許せないのだ。許せるわけがない。だって、その欠陥だらけの常識のせいで、これまでどれだけ苦しい思いをしたと思ってるんだ。

そういう恋愛と結婚の結びつきに対する批判は昔「結婚をしたいのかもしれない」とタイトルを付けた連続記事で散々書いたからここでは割愛するけれど、とにかく、初めて手に入れられそうな私の「家族」をそんなものに壊されてたまるかと思った。

 

少しだけ背景を話せば、夫とは15年くらい友達だった。10年ほど前、物理的に近くにいたからよく会っていた時期とお互い色々しんどい時とが重なっていて、とにかくしんどかった。そのしんどくてしんどくてどうしようもない期間を親しい友人として過ごして以降、私の夫に対する一番の願いはいつだって「幸せで元気でいてくれ」だった。

さすがゴールデンレトリバーはよくモテるので、色んな女の子と付き合ったりしばらくは結婚していたりしたけど、その間も私の願いは「幸せで元気でいてくれ」だったし、たまに連絡を取っては「幸せそうで元気そうでよかった」と思ったり「元気じゃなさそうで心配だ」と思っていた。その願いは、私自身の進路とか人間関係とかとは全く切り離されたところで絶えず続いたもので、自分の一部みたいな当たり前の願いだった。

悟りだか祈りだかしらんけど、これが大切な何かだということはわかったし、結婚によってそれが壊されるなんて絶対に絶対に避けたかった。夫婦じゃなくてもいいから、家族になりたいと思った。

そこではっきりと姿を見せた敵が、モノガミー。こいつを受け入れてしまったら、私たちのこれまでの15年間が、互いを漠然と大事に思い続けた日々が、きっと容易に飲み込まれて「恋愛」のラベルを貼られてしまう。

 

恋愛があってもなくても成立する家族。
「2人きり」にしばられない網目のように広がる家族。
性にも法にもよらない「大切な人(たち)」と築いていく家族。

それを実現するために必要だったのが、「不倫OK」としか言いようのない上の条項だった。「但し、」の後は、お金とかそれこそ法律とか面倒だから相談してね、というためにくっついてるおまけ。家族でいること。それが一番の目標。

 

つまり、だから、別に不倫してもしなくてもいいんだけど、ゴールデンレトリバー(基本モテる、社交的)は毎日楽しそうに料理と勉強ばかりしてるし、私は具合悪くて外出する元気ないしそもそも社交性ゼロだし、不倫OK条項がなんだか宙に浮いたままになりそうだけど、、、

でも、でも、これをこうして宣言することが、まずは初めの一歩かな。

最近はInstagramにも夢中なゴールデンレトリバー

大きな肉を買って喜ぶゴールデンレトリバー

 

まあ、私は、、、彼女ほしいですけど。。。

街も人も思い出だって 全てが移ろっていく

婚姻届を提出して1年と1ヵ月が経った。

あまりにも突然の結婚に「なんで結婚したの?」と問われることもしばしばで、そのたびに「そこに戸籍謄本があったから」と答えてきた1年だった。

だって「既婚者なってみたくな~い?」って尋ねてくる阿呆は世の中にそうそういないし、その問いを私に向けて言ってくれる人もおそらく今後現れないと思うので、「なってみた~い!」と返答したのは良い決断だったと思っている。

 

この間、約2年ぶりに会った教授に結婚を報告したら、目を丸くして驚かれた。

「だって、あなたは婚姻制度にとても批判的に見えたから」

その教授はジェンダー研究の専門家で、私が2年前にとった授業も "Gender and Sexuality" という名の、ミシェル・フーコージュディス・バトラーといった理論家から、婚姻制度、LGBTQ+、セックスワーカーなど、幅広い内容について学ぶものだった。そこで私が一夫一婦制や家父長制への不満をぶちまけていたことを教授は覚えていてくれたのだ。

「婚姻制度には今でも批判的だけど、二人でいろんな条件を話し合って、従来の結婚に抗うような、私たちが幸せになるための新しい家族が実現できるかもしれないと思ったから」

つたない英語でそんなことをもそもそ説明する私に、「人生をかけた実験だね、今後の展開が楽しみ」と教授は励ましの笑みをくれた。

 

2021年の一年をかけて、『結婚の奴』に関する論文を書いていた。

Gender and Sexualityの授業で初めて人に向けて話したアイディアを、クィア理論の授業のタームペーパーとして練り上げ、最終的に日本のジャーナルでの出版にまでこぎつけた。もう少なくとも5年は会っていない旧友から「既婚者なってみたくな~い?」とビデオ通話で突然言われたのは、その論文を書いている真っ只中だった。

その論文は、簡単に言えば、結婚の制度とかイデオロギーとか全部ひっかきまわして(クィア化して)自分たちが幸せになることを目指そうぜ、ということを書いたものだ。

そんな論文を書いている最中のプロポーズ(?)。実は、「なってみた~い!」と返答する前に私はある条件を出していた。名字は妻(私)の姓にする、基本は別居、不倫可の3つだ。なぜその条件でOKを出したのか、単に酔っぱらっててあんまり考えていなかったのか、それはわからない。ただ、なぜか知らないけれどそれでもいいと言うもんだから、「それなら既婚者なってみた~い!」となったわけだ。

 

しかし私は疑い深い。

口約束なんて、ましてうっすらロマンチックな雰囲気が出ている二者間での約束なんて、かけらも信用していない。モノガミーなんかくそくらえ。どうせ愛だの恋だの言いだして、「非常識」な約束なんてぽいぽい忘れちまうんだろう?

というわけで、婚姻届を出す前に契約書を作ろうと提案し、契約書じゃ味気ないから憲法にしようと言われ、最終的に「家族憲法」が制定された。

その家族憲法では、私たちの「夫婦関係」の基盤となる考え方と決まり事を明記し、一年に一回の見直しを義務化。つまり、結婚して1年が経ったということは、この家族憲法の初めての「改憲」が行われたということなんですね。

 

 

前置きが長すぎましたが、つまりこの家族憲法のことを書きたいのよ。

この間の初めての改憲で、この家族憲法の存在はなるべく第三者に伝えていこうと決めた。従来の婚姻制度が決して「愛し合う2人」だけの問題ではないように、私たちの「家族」としての関係も私たち2人だけのものでは有り得ない。第三者に理解を求める、あるいは少なくともこの家族憲法の存在を伝えることは、私たちの望む家族を成立させるうえで必要なものだろう。

 

具体的な内容にまで踏み込もうかと思ったけれど、とてもへとへとすぎて無理なのでとりあえず今日はここまで。また元気のあるときに、その家族憲法にどんなことが書いてあって、なぜそう決めたのか、少しずつでも書けたらいいな。

家族憲法はこのブログで全文公開する気はないけど、もし興味があって全文読んでみたいなという人は言ってくれれば送ります。

那覇の青山

ひと月ほど前、「洋服の青山」で人生初のメンズスーツを買った。とても良い買い物だった。

昨日その経験を友人(というか元彼)に話したら「それが本当なら、良かったね」と返された。がっかりして、呆れて、腹が立った。

「それが本当なら」?

「それが本当なら」と言われる程に見えない世界の話なのかもしれない。マイクロアグレッションって呼ばれるくらい小さなことだから、「それが本当なら」と言うことでそれを当事者たちの「気のせい」にしてしまいたいのかもしれない。

「それが本当なら」?

少なくとも、私にとっては、紛れもなく「本当」の経験だったから話したのよ。

友人(というよりは元彼)には、「それが本当なら」という枕詞が必要なほど私の話は本当には聞こえなかったようだけど、私にとってはものすごく本当でものすごく大事な話なので、元彼(今は友人のはず)を説得する代わりに、誰かが幸せになるための小さな情報源としてブログを書く。

 

私は体型的には女性、身長は150cm弱、ここ一年ほどのBMIは普通体重の範囲内。つまりとても小さい。私より背の低い大人には滅多に会わない。

そんな私でもフルオーダーせずにメンズスーツを買えたんです。YA1のサイズで、お直しはしたけどそれも通常のお直しの範囲内。まずそれは、その時点ですごいこと。

今回は礼服が必要だったので選択肢はそんなに多くはなかったけど、それでも選択肢がゼロじゃなかったというだけで感動もの。おそらく礼服じゃないスーツならもう少し色々選べるはず。

女性が着られるメンズスーツということなら、keuzesファブリックレインボーなどでフルオーダーするのが、おそらく質の良いものを手に入れる一番良い手段。私も可能ならそういうところで仕立てたかったんだけど、今回は費用はともかく時間がなかった。残念。

洋服の青山には小さいサイズもあると噂には聞いていたけど、ウェブサイトで見てもいまいちわからず。それでも諦めがつかなくて店舗に行ってみたら、店員さんがYA1までサイズがあるスーツをお薦めしてくれた。

最初に店舗に行ってから購入までは約2週間で、流れは次のような感じ。

予約も何もせずに行った初回は、店舗にある最小サイズ(YA3)をとりあえず着てみて「大きいねー」ってなる。当たり前じゃ。それで、小さいサイズの取り寄せをお願いして、約1週間後に取り寄せ品到着の知らせを受けて再び店舗へ。ここでYA1が身体にフィットすることを確認して、その上でお直しの長さを決める。さらに1週間ほど待って、お直しの終わった完成品スーツを受け取った。

今回は必要なかった&見つからなかった(そんな真剣に探さなかった)ので靴は揃えてないけれど、ネクタイとシャツも洋服の青山でついでに購入し、靴下は自分のサイズに合う(=レディースの)黒いやつをUNIQLOで買った。あとこのスーツを着るときはいわゆるナベシャツを着ているので、それも数千円で購入(別にナベシャツは必須ではない)。スーツ自体が約6万円、他の色々を揃えても7万弱で済んだ。安い買い物ではないけれど、礼服を一式揃えたんだからまあこのくらいですかね、という気持ち。

もちろんスーツというモノとして「良い買い物ができた」という気持ちはある。だって私でも着れるメンズスーツが手に入ったんだもの!でもそれ以上に、洋服の青山での経験が素晴らしいものだった。「本当に」素晴らしい経験だったので、その話でもちょっとしましょうね。「それが本当なら」って言いたくなりそうな人はお呼びでないのでここで引き返してね、バイバイ。

 

着るならメンズの服がいい。そう思い始めたのはもう何年も前のことだけど、そうは言いつつも妥協に妥協を重ねてレディースの服を着てきた。だって、私の体型は紛れもなく女性のそれだし、何より身長が150cmしかない。どうにかこうにか「これなら着ても泣きたくならない」という服をレディースコーナーで必死の思いで探す日々だった。

でも、1年前にUNIQLOの前で服を買うのが嫌すぎて過呼吸を起こしかけてから、レディースの服を買うのをほぼやめた。

それをやめられたのは夫の存在が大きい。上のような理由で服を買うことが大嫌いなまま育ってきた私と違い、夫は昔からおしゃれをするのが好きな人。私よりメンズ服だけでなく服全般に詳しい。それに店員さんと会話をすることにも全く抵抗がない。すげえなその社交性。まじでゴールデンレトリバー。わん。

でも何よりすごいのは、メンズ服を着たいと言い出す私を全面サポートしてくれるところだと思う。

先日、結婚が一年続きそうだね記念ということで琉装をしてカメラマンさんに写真を撮ってもらった。そのときに「正装するなら男装じゃなきゃ絶対に嫌だ」と私が駄々をこねると、というか、駄々をこねる必要もなく私がその希望を述べた時点で「いいね、そうしよ!」と明るく了解してもらえた。そろそろ夫のおしりからふさふさゴールデンの尻尾が生えてきそう。

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そんな感じの夫なので、私はここぞとばかりにメンズ服売り場についてきてもらい、そのおかげで最近は人生で初めて服を買うのが楽しいなって思い始めている。もちろん150㎝の人間がメンズ服を探すのが難しいことに変わりはない。だからボーイズサイズにも手を出した。メンズとボーイズとユニセックスを行ったり来たりしながら、この半年ほどで随分服を買った。買うのも着るのも楽しい。最高じゃん。

 

それでも適当に着こなして問題ないカジュアルな服とは違って、スーツ探しはそれなりに難航した。

ゴールデンレトリバー夫に一緒に来てもらってデパートのメンズスーツ売り場にも行ったけど、当然わたしに合うサイズのスーツはない。でもサイズがないことより悲しかったのは、店員さんたちの視線。

店員さんとのやり取りを夫に丸投げしているのも悪いんだけど、夫が「着るのこの人なんですけど」と伝えた時点で店員さんの目が泳ぐ。

不可解な顔から苦笑いに近い顔、もちろん皆さん接客のプロだからそんな表情は0.5秒もしないうちに消してくれるのだけど、だからといってそれが見えないわけじゃない。その後も丁寧ではあるけれどあきらめムードの接客を受けて「まあこのサイズは難しいですよね」とへこへこしながら店を出る。

スーツが必要になる法事の日が近づいてくるにつれて、「やっぱり正装は女装するしかないのかな」と憂鬱な気持ちになりつつも、覚悟を決め始めてた。

 

そんな時に思い出したのが、前に誰かのブログで読んだ洋服の青山の話。

サイズがあったことはもちろん嬉しい。でも何より嬉しかったのは、夫と二人組でいてもメンズスーツを探しているのが私であることを、とてもとても自然に受けとめて話を聞いてもらえたこと。

洋服の青山でいろいろと助けてくれた店員さんは、言葉の濁りもなければ目が泳ぐこともなく、もちろん「レディースならあります」といった案内をすることもなかった。とても自然に、メンズスーツ(礼服)を探している客として私に対応してくれた。

それはもちろん、ほかの店の店員さんがあからさまな差別をしたとか、洋服の青山の店員さんだけが超好待遇だったとかそういうことじゃなく、まさに「それが本当なら」と周りの人なら言ってしまいそうになるかもしれない微々たる違いかもしれない。でも、あの店員さんの対応がとても「自然だった」ことは、小さな不自然が散見する対応をいくつも見てきたからわかるんだよ。少なくとも、私はあの店員さんが当たり前に私にメンズスーツを売ってくれたことが、私自身がそう感じられたことが、とても嬉しかった。

 

まだ自分でネクタイ締められないので一人で着られない正装ではあるけれど、黒いメンズスーツを手に入れてなんだか強くなった気がする。
これでもう冠婚葬祭も怖くない!(たぶん)

二代目襲名披露

たのしいしんこんせいかつ、みたいなことをしている。

まるで幼稚園児のおままごとみたい。でもわたしたちは30代のいい大人なので、これはまぎれもない「生活」ってやつ、だ、と、思う。

新しく引っ越した先は、初めてのワンルーム。愉快な隣人は毎日外でバーベキューをしていて、子どもたちがきゃっきゃと遊んだりわあわあ泣いたりしている。すぐ横にある大家さんの家の庭からは毎日お経みたいな何かが流れいて、夜には隣人の流すヒップホップやハワイアンミュージックとの奇妙なコラボ。そんな中で少しずつ形を成していく、わたしたちの「しんこんせいかつ」。これは、うん、悪くない。いや、むしろ、とても良い。

 

 

「ハワイで数か月間一緒に暮らしてほしい」

無茶苦茶なお願いだと思った。なんて身勝手で甘えたお願いをしているんだ、と自分の中で自分を責める声が響いた。

休息のときであるはずの冬休みは遺産相続の手続きのため東京中をかけまわっていたらあっという間に終わってしまい、へとへとのまま迫りくる新学期におびえていた一月のはじめ。研究どころか食事も睡眠もままならない状態で、毎日ベッドからほとんど動けずにいた。
このままではマズイ、ということはさすがにわかった。ひとりでいてはいけないと強く思った。
でも、じゃあ、どうする?

いくら結婚したからって、法律上夫婦だからといって、夫には夫のやるべきことややりたいことがあり、それをお互い尊重しようというのは私たち「夫婦」の約束事のひとつでもある。
そんな出過ぎた真似はできない、いや、でもこのままじゃまずいよ、でも、そんなこと言ってもさすがにそれは迷惑すぎるだろう、そんな逡巡をコンドミニアムの大きな窓を見つめたままベッドの上で繰り返していた。

 

で、私は結局、そのお願いをおそるおそる口に出した。

「いいよー」

頼みごとの大きさとまるで見合わないような、軽く優しいトーンの返事。

「ほんとに?ほんとにいいの?大丈夫?」と、頼みごとをした張本人のくせに、私の方がおたおたしてしまう。人を頼ろうと動けた自分にも快諾してくれた夫にも驚いたり動揺したり感動したり忙しかった。

 

正直に言えば、「頼んだら来てくれるかも」と思っていた。
まず私がそこまで誰かを信頼できたことが驚くべきことだと思っている。

そして、その信頼があったからこそ、私はこの無茶なお願いを口に出すことができた。
それは私と夫の個別的関係性というより、夫の人柄によるところが大きい。その度量のような柔軟さのようなものは、私にはない夫の良い部分だと思っている。

しかしそれにしても。
なんのためらいもなく即答してくれるとは思っていなかった。さすがに数日考えるとか、最低でも数分考えるとか、何か細かい事情を聴いてからとか、そういう展開を予想していた。
もう15年以上の付き合いになるこの人を、初めて「すごい」と思った。これまで世界中に1人しか尊敬できる人はいないと思っていた私に、2人目の尊敬できる人ができた。そんなことが、この結婚生活のようなものの中で起こると思っていなかった。

 

数日前、私のツイッターを遡っていたらしい夫が「最近楽しそうだね」と言った。
確かに最近楽しい。今週は春休みなこともあって、ビーチへ行き、ハイキングにも行き、少しずつ仲良くなっている隣人たちからは美味い肉をお裾分けしてもらったりもしている。
海に慣れ親しんで育った夫が海での浮き方を教えてくれ、毎日1万歩歩くと意気込んでいる夫がダイアモンドヘッドに登ろうと誘ってくれて、社交的な夫が隣人たちと親交を深めてお肉をもらってきてくれたりしている。改めてこう書いてみると本当におんぶにだっこだな。とはいえ、ホノルルのことを色々と知っていたり調べたりするのは私だし、計画を立てたり家事の必要ごとを把握したりするのだって私のほうが得意だ。本当に私たちは似ていない。そして、それが、悪くない。

体調が回復したわけではないし、今でも毎日のようにげっそりぐったりして日中ベッドに横たわる時間が必要だ。それでも夫が楽しそうに散歩したり買い物行ったりしたりしている姿を見ていると、たとえ私の体調がぼろぼろでも「ふふふ」みたいな気持ちになる。
というか今日こうやってブログを書いているのも体調が微妙すぎて勉強するのが難しかったからなのだけど、そんな横で夫は隣人から借りてきたバーベキューグリルで肉の塊を楽しそうに焼いていて、その景色がとても良い。

 

いまだにこの感情が何なのかはよくわからない。恋愛と呼ぶにはあまりにも私は夫をかわいいと思いすぎている気がする。年上の弟だと思っているし、「桃ちゃんみたいにかわいいな」とも思っている。30代も後半の人類を見て数年前に死んだ愛犬を思い出しているのはちょっとした狂気の沙汰だとは思うが、残念ながら私は人間より犬が好きなので「愛犬みたい」というのはこの上ない誉め言葉だ。
わからないなりに、「桃みたいにかわいい」と思いつつ感じたのは、「あれ、この結婚生活意外と長続きしちゃうんじゃないの?」ということだった。
冗談みたいな始まり方だった結婚だけど、今のこの生活悪くないし、むしろ楽しいし、夫は桃みたいにかわいいし、もう少ししたらまた別居生活だけど、あれ、この結婚わりと良くない?とある日ふと思った。当初は、というか割と最近まで2~3年で終わる気がしていた結婚生活だけど、そして未だに、いつでも片方の意思により離婚可能、不倫オッケー、基本は別居という条件がなければとても無理だと感じてしまうけれど、それでも、今はこの結婚生活が長い時間続いたらそれはそれで楽しそうだとウキウキできるようになった。

 

夫の名前は英語圏の人には発音が難しいらしく、なぜか彼はこちらでMomoというニックネームで呼ばれている。高校留学時代にアメリカ人の友人からつけてもらったニックネームだとかで、Momo。桃?いやいや、Momo。

さすがに初代のかわいさには負けますが、二代目「もも」はありがたいことに人類なので、私との結婚生活は続いても続かなくてもどっちでもいいから、私より長生きしてほしいなと思っています。