煉獄日記

目指せ天国。

(約)365日

中学受験の問題によくある「〇月〇日~△月△日までの日数を求めなさい」というやつが苦手だ。手順や規則が多くて、どこかで間違えてしまいそうでおろおろする。

日本を出て1年が経った。365日。あれ、366日?367日?
とりあえず1年。2019年8月11日に出国&入国して、それから1年。

せっかくきりがいいから何か書こうと思ったけれど、特に何も浮かばない。あえて言うなら「生き延びた」という感じだろうか。私は今ハワイでちゃんと生きている。生活できているとかそういうんじゃなく、生き物として生存している。そのことに安心している気持ちが一番強いかもしれない。

とはいえ、数日前から体調を崩して今も微熱があるので、「生き延びた」というのも弱々しくため息交じりにしか言えない感じだけど。

 

1か月前くらいから、何ともいえない感じに調子が悪い。
このひと月程の間にショックなこと、というか、うーん、ストレスフルなことが2つほどあり、思わず蟻地獄みたいな精神状態に足をつっこんでしまった。もうどちらの出来事もある程度解決して、それについて直接悩んでいるわけではないのだけど、そうは言っても一度踏み込んだ蟻地獄はなかなか私を解放してくれない。
強いストレスを感じたときにやってしまう布をいじる癖が止められず、そろそろ指先が硬くなってきている。こんなに長期間続くのは久しぶり。かといってそれを無理にやめればチックがでる。抑うつは突然心を襲わない、こうやって体のコントロールをじりじりと奪ってくる。でも布いじりの癖もチックもストレス解消、気持ちを落ち着かせる効果があるので、これは私の身体なりの戦い方なのかもしれない。

その2つの出来事は、どちらも違う意味で予想外のことだった。そして、「私まだこんなこともできないのか」と30代になっても残っているびっくりするほど幼稚な部分が露わになった出来事でもあった。
私の中にある最も古い記憶のひとつが、幼稚園のころに当時の親友を積み木で殴った記憶。ひとりで積み木で遊んでいるのが楽しかったのに、ひとりぼっちな私を心配して「あっちでみんなで遊ぼう」と声をかけてくれた友人が煩わしくて、「行こう」「行かない」みたいなやり取りを何度か繰り返した後思わず手に持っていた積み木で彼女を殴った。ひどいガキである。当然友人は泣き出し先生が駆け付けたのだけど、私は意地になって積み木遊びを続け、彼女と先生たちの会話をひやひやしながら背中で聞いていた。友人は、私のことを言いつけなかった。人生初の罪悪感。
もちろん今回は誰の事も殴ってないし泣かせてない。ただ、私の協調性の低さや共感力・思いやりの無さのために人の善意を上手く受け取れなかったという点では、事の本質は4歳だか5歳の頃と変わっていない。
ひとりでいたいという気持ちを理解してもらえず、「わたしは悪くないもん」と積み木を握りしめていた幼稚園児は、その気持ちを抱えたまま、「どうしてその程度の我慢もできないの」と自分を責める超自我を兼ね備えた面倒くさい30代になった。

「このくらいできるでしょう、我慢しなさい、わがまま言わない!」と無理強いする自分と、「できない、嫌だ、耐えられない」と謀反を起こす自分が互いに譲らずばちばちにぶつかり合った結果、心身がショートした。つくづく、面倒くさい。

こういうときに無理をするとろくなことがないと経験上知っているので、もう残り2週間の夏休みは諦めることにした。理性と感情とも違う、幼い自分と大人ぶった自分。こいつらが和解して、心身の回復に協力的になるまでしばし様子見です。

 

こういう、もがいても心も体も全然ついてこないときに諦める技術って、なかなか身につかない。がんばればがんばるほど良い、みたいな信念というより強迫観念が強すぎて、いわゆる「真面目な人ほどうつになりやすい」って状態ですね。

先場所の大相撲で、私の大好きな大好きな照ノ富士が優勝した。泣いた。優勝が決まって泣いて、インタビューの一言一言に泣いて、翌朝「サンデースポーツ」の録画を観て泣いて、「なんで私はこんなに泣いてるのに照ノ富士は泣いてないの!」と訳の分からない逆ギレをしながら泣いた。
ものすごく番付を落としてからの復活優勝、というドラマチックな展開が私の過剰なまでの嬉し泣きの一因だったことは確かだったけど、それ以上に私の中では、以前読んだインタビューの言葉が頭に残っていて、それがどこか自分と重なって(というのも恐れ多いけど)、なんかもうたまらなかった。

 僕、5、6回くらい「辞めたい」と言いに行っているんですが、親方は、「とりあえず、今は体を治すことだけを考えろ。辞める辞めないは、そこから先の話だ」と。

前にどこかで書いた気もするけど、日本の大学院にいたころ指導教授に「大学院を辞めようと思います」と言いに行ったことがある。
毎日ひどく落ち込んで、本も読めないし、電車にもろくに乗れない。研究のし過ぎでこんな風になるのは私が研究者に向いてないからだ、実力がなかったんだ、こんなに頑張ってもダメなんだからもう辞めよう。うつろな目でそんな話をぽつぽつする私を見て、指導教授は「今のあなたにそれを判断する力はないから、まずは元気になってから考えなさい」と言って、おすすめの心療内科を教えてくれた上、最後には半ば無理やり大学のカウンセリング室に私を引っぱっていった。
あんな状態でも病院へ行くという発想すら無かった私にとって、先生は割と本気の「命の恩人」だ。普段は生意気な態度ばかりとっている自覚はあるけれど、でも実は、一生頭上がらないわ、とも思っている。

照ノ富士うつ状態だったとは思わない、というか知らない。でも、自分の一番大事なものが努力しても努力しても空回りする一方という状況で、それを一度諦めるという判断はものすごく苦しい。すっぱり全部諦めることに比べて、「続けるために止まる」という判断は何倍も何十倍も難しい、と、少なくとも私は思っている。
そういう経験をした照ノ富士が言う「一生懸命やってきてよかった」だからこそ私は感動してしまった。「一生懸命やる」ことはただがむしゃらに頑張ることじゃない。相撲を取りたいという思いのために時には相撲から離れる。そのジレンマも焦りもひっくるめて、相撲のために辛抱する。そして、そこで道標となって支え続けてくれる親方や周囲の人を信頼し続ける。照ノ富士が優勝インタビューで言った「一生懸命やってきてよかった」には、単なる稽古以上のものに必死で取り組んできた彼の気持ちがにじみ出ているように思えて仕方がなかった。

 

1年を振り返るどころか、現在の不調をぐずぐず言ってるだけだな、これじゃ。
留学生活、今のところ楽しい。大変だけど、楽しい。でもね、本当は「楽しい」以外の感想に無意識に鍵をかけていて、大人ぶった私がその鍵をどこかに隠してしまっているような感じもする。もしそうならば、放っておくといつか幼い私が爆発して収拾がつかなくなるから、少しだけでも鍵を開けさせてほしい。
大人ぶった私は、私本体よりも幼い私よりもずっとずっと臆病で疑い深いので、もうしばらくこの交渉は続きそう。
夏休みが始まってわりとすぐに勉強を再開した時、この子が感情の鍵をどっかに持ち出したことに実は気づいてたんだけど、そんなに怯えて意地になってるとは思わなかったよ、ごめんね。

ハワイに来てから今日までの一年間で、「この人に会いたい」と強く思った相手はたった一人だった。日本で三年間毎週顔を合わせていたカウンセラーさん。私の中でぎゃあぎゃあと騒ぐ大人ぶった私や幼い私の声を、我慢強く一緒に聞いてくれた唯一の人。
カウンセラーさんに会いたいという気持ちは、人より場を求めているんだと思う。ハワイでの大学院生活は充実していて、友達もできて、遠距離の友達とだって定期的に連絡を取ってるから寂しいわけじゃない。ただ、それらは決して自分の感情の蓋を開けるのに安全な場所ではないし、そもそも友人にその役割を求めるのは双方にとってリスクが高すぎると私は思っている。やっぱりそこには、プロが必要なんですよね。
こっちで最初に試したカウンセリングであまりにも嫌な思いをしたからそれ以来諦めていたけど、まだしばらくは金の力で解決しなきゃいけないことがあるのかもしれません。金の力、あんまりないけど(苦笑)

再びカウンセリングを受けるかどうかはともかくとして、自分の感情を覗きこむのに安全安心な場を確保することが二年目の目標なのかな。

 

出来る限り健やかな状態で新年度を迎えられるよう、あと二週間弱、精一杯のんびりしよう。
「大事なのは、死なないことと、死にたくなることをしないこと」という低レベルなモットーを忘れずに、留学生活二年目も生き延びていこうと思います。