煉獄日記

目指せ天国。

帰れないホーム

昨日、ハワイ州知事が実質的なハワイの入国(州)を禁じる措置を発表した。ハワイに入る人は、観光客であろうと他州・他国から戻ってきた住人であろうと、入州後14日間の隔離を命じるというものだ。
14日間の隔離というのは、今の私にとって現実的にほぼ不可能だ。つまり、今ハワイを離れてしまったら、この措置が解除されるまでは戻ってくることができないということ。この状況では、日本に帰る事なんて夢のまた夢。

この夏は日本に帰るつもりなんて全然なかったのに、この状況の中でなぜか「帰りたい」気持ちが強まっている。日に日に強まっている。もうほとんどホームシック。いつもブログ記事を書くときには仮のタイトルをつけるんだけど、それを「ホームシック」にしてしまうくらい、帰りたい。さすがにタイトルが「ホームシック」はストレートすぎるので変えるけど。

 

でも、「帰りたい」と強く思えば思うほど、「どこへ?」という気持ちにもなる。
一応日本に実家はあるけど、長時間母と二人きりになると私は本当に文字通り具合が悪くなる(頭痛や微熱がおさまらなくなる)ので、それはもちろん帰りたい家ではない。父の居場所は論外。日本にいたころに住んでいた家は解約済み。じゃあ一体私はどこに帰りたいの?
アメリカの友人に話すときには「日本に帰りたい」と言っているけど、その「日本」ってどこ?どこでもいいの?例えばこれまでほとんど足を踏み入れたことの無い、四国とか北陸のどこかもその「日本」という漠然とした言葉には含まれているの?
でもじゃあ「日本」以外のどこか、例えば昔1年だけ住んだカリフォルニアに帰りたいかと言われたら、当然ながらそれも違う。カリフォルニアはもはや「行く」場所であっても「帰る」場所では断じてない。やっぱり私が帰りたいのは「日本」だ。

ハワイでぼんやりと思い浮かべる日本は美しい。東京の街並み、人の雰囲気、空気のにおい、そういう全部が恋しく思える。東京じゃなくてもいい。旅行で行ったことのある、北海道や名古屋でもいい。それらを想像すると、頭がぽわんとしてしまうほどすべてが恋しい。
しかし具体的な帰国を考えるほど、まるでモザイク画のように想像上の「日本」がばらばらの寄せ集めに変化していく。知らない土地、行ったことはあるけど馴染みはない土地、住んだことのある土地。親しみのある土地でも、好きな人のいる場所、酔っぱらいの多い苦手な街、落ち着く喫茶店、狭くて居心地の悪い道など、そこには様々な土地とその土地に関する記憶が詰まっている。そのすべてが恋しいのかと問われたら、ちょっとわからない。
それにそういう場所たちは私の住処ではない。実家にもどこにも「帰れ」ない私が「ただいま」と言えるのは、きっと空港に降り立った瞬間だけだ。あとはずっと「おじゃまします」。物理的に帰る場所がない。

発想を変えて、「帰って何がしたいか」と考えてみる。
友人知人に会いたい、好きな喫茶店に行ってコーヒーを飲みながら読書をしたい、東京を散歩したい、ゼミに出たい、いつものバイトに行きたい、去年まで暮らしていたあの家でテレビを見てのんびりしたい。
ここまで考えて気づく。「無理じゃん」って。友人知人には会えるし、好きな喫茶店もきっと訪問できる。散歩もまあ可能かな。でもずっと顔を出していたゼミは今コロナの影響でキャンセルされているし、そもそもそこにいる学生は徐々に知らない顔が増えてきている。それが私の出たい「ゼミ」なのかはわからない。バイトなんてもちろん留学時に辞めてしまったし、家に至っては一緒に住んでいた彼氏とも別れてしまった。
なんだ、全然無理じゃん。日本帰ったって無理じゃん。コロナの影響で街や人の様子が様変わりしていることを差し引いても、私のホームシックは日本に帰ったところで解消されない。だって、私が恋しいと思っているのは、過去だから。日本で暮らした過去そのものだから。

 

「ホーム」というのは、時と場所と人(モノ)が合わさって成立するものらしい。ある場所で、特定の時間を、特定の誰かと過ごす、または特定の何かをして過ごす、そういう積み重ねで「ホーム」はようやく出来上がるらしい。時間をかけて居心地のいい空間を作り上げて、それがようやくその人の「ホーム」になる。
"Home" という言葉が、なんとなくノスタルジックな響きを持つのも、こういう訳なのだろう。今現在「ここがホームだ」と言える場所にいる人以外にとって、それはどうやっても失われたものにしかなりえない。時は過ぎ去るし、人も場所も変化していく。ホームはホームと呼べる空間を日々更新していかないかぎり、すぐ過去の思い出の一部になってしまう。そしてそれは、恋しく思うことしかできない、決してたどり着けない空間になる。
そう考えると、私のホームシックが癒される時間が友人との電話やたばこを吸う時間であることも納得がいく。そこでは、「ホーム」と呼べる関係が更新されていく。また、喫煙という身体的な行為の繰り返しは過去との連続性を感じさせてくれたりする。そうやって細々とホームを再生産することも、ホームシックを癒すのには役に立つ。

 

移民や難民、より広く言えば Diaspora の経験には、常に「ホーム」の問題が伴う。故郷の喪失は、ただの距離の問題ではないんだね。到達不可能性の問題なんだ。一度離れて失ってしまったホームは、もう二度と取り戻せない。この前書いた The Book of Salt も移民の話だったけれど、その主人公もまた、ホームの喪失に苦しんでいた。今いるフランスはホームじゃない、だけどベトナムだって帰りたいホームじゃない。なのに帰りたい。自分のホームに帰りたい。でも、それがどこだかわからない。

 

今の私はまだ、「日本」全体をぼんやりと「ホーム」のように思い描くことができる。それがどれだけ大きな支えになっていたのかが、ここ最近日本との距離が離れていくことによってよくわかった。帰りたい。帰れなくなるほど、帰りたい。でも、よく考えてみたら「帰る」と言える場所がない。

このホームシックみたいなもの、いつになったらおさまるかな。おさまらないかな。それとも、ハワイはいつか私の「ホーム」になるのかな。とりあえずもうしばらくハワイで様子見です。