煉獄日記

目指せ天国。

欧米人の見た相撲②ペリー周辺

昨日の「欧米人の見た相撲①ペリー」の続き。今日はペリーの通訳だったウィリアムズと、ペリーの伝記を書いたグリフィスについて。

「ペリーは実は相撲に圧倒されている部分もあったのでは?」というようなことを昨日は書いたが、今日の2人はもっとクールだ。といえば聞こえはいいが、つまり関心が薄い。そもそも記述が短いし、その文章にもあまり勢いがない。それでも面白い部分はもちろんあるので、まずはペリーと同じ相撲を観ていたウィリアムズの方から読んでいきましょう。

 

2-1.ウィリアムズの見た力士

ウィリアムズの文章はペリーに比べると事務的な報告書っぽい感じなので、興味云々以前に全体的に描写が簡素だ。しかしその描写の詳細さから彼の関心について想定することはできるかもしれない。
「力士」という言葉はこの時代の文章であまり見かけないのだが、ウィリアムズの文章には(かなり不思議なスペルではあるが)それにあたる単語が登場する。

[N]inety naked rikozhi, or athletæ, paraded in front to show their brown by carrying the bundles of rice in various ways; some, two on their heads, others, one in their teeth, at the end of their arms, or on their backs. (イタリックは原文)

3語目にある "rikozhi" というのが「力士」だと考えてまず間違いないだろう。この時、彼の記録によれば200俵の米がペリーの艦隊に贈られ、 それを運ぶのに力士たちが駆り出された。 "Parade" という単語が使われていることからもわかるように、それはかなり「見せびらかし」の様相が強いものだったようで、様々な方法で米俵(Wikipediaによれば1俵60kgらしい)を複数個ずつ運び、筋肉を見せつけていたと書いてある。
もうひとつこの一文で注目したいのは、 "naked" という言葉。ペリーも力士を「裸」と表現してはいたが、最低限その前にまわしの説明をしていた。この後には土俵入りの様子が描かれ、そこでは化粧まわし(long fancy aprons)についての言及が一応あるが、これでは読者の想像する力士は完全に真っ裸の大男になってしまう。
次の一文はこのように続く。

These fellows are trained to such feats and were all stout-limbed men; the biggest stripped to let Perry punch him in his paunch. (147) 

 彼らはこういう離れ業のために訓練されたかっぷくのよい男たちで、一番大きいやつがペリーに太鼓っ腹をパンチさせた。と、完全に見せ物としての力士像ができあがっていく。神事とは程遠い。
ペリーが力士の腹にパンチしたのかは定かではない。なぜなら、ペリーの方の記述では、腕や首を触ったと書いてあるだけで、パンチしたとは書いていない。パンチしたという印象的な記憶の方が正確な気もするし、触った本人の記憶の方が信用できる気もする。とりあえず、ペリーが力士に触れたことだけは確かみたい。
そして気になるのが "stripped" という一言が入っていること。日本人の読者が読めば、この力士(おそらく調べれば誰だかわかる)は浴衣か何かを着ていたと想像がつくけれど、アメリカ人読者はどうだったのだろう。前文の力士たちと、この一番大きい力士は別々にいると考え、裸の荷物運びと服を着た大男を想像したかもしれない。いずれにしても、この力士もすぐ浴衣を脱いでしまうので、やっぱり読者の想像する力士はおそらく真っ裸だ。そりゃ野蛮だと思われるかもしれない。

 

2-2.東西の接点

取組の描写はあまり面白くないので割愛するとして、次は相撲を観終わった後の感想、まとめにあたる部分を見る。

It was a curious, barbaric spectacle, reminding one of the old gladiators. (148)

野蛮とか未開を意味する "barbaric" という語が使われているのはともかく、というよりもはやクリシェのようなものなので脇に置いておいて、興味深いのはそのあとの "old gladiators" との比較だ。 "Gladiator" にはいくつかの意味があるが、わざわざ「古くの」と限定していることからも、古代ローマの剣闘士を指していると思われる。そしてその剣闘士は、通常奴隷や捕虜の担う役割だった。つまり彼の眼に映った力士は、「怪物的」と感じたペリーとは対照的に、とんでもなく時代遅れに思えるほどの単なる野蛮人だったということだろう。
そしてそれは、ウィリアムズにとってある意味で「良い」ことでもあった。ペリーと同様に、ウィリアムズは相撲を日米対比に用いている。

Indeed, there was a curious mélange to-day here, a junction of the east and west, (中略)all these things, and many other things, exhibiting the difference between our civilization and usages and those of this secluded, pagan people.

その日の興味深かった出来事は「東西の接点」を見られたことだとウィリアムズは言う。省略した部分にはアメリカから持ち込まれた文化と彼が日本で見た文化が羅列され、その差が強調される。「孤立した未開の人々」と「文明」が接触して何が起こるかといえば、そう、「文明開化」という名の西洋化の始まりだ。
そういう意味で、残念ながら、ウィリアムズにとっての相撲は、日本の後進性を明らかにして、西洋の開国と介入を正当化するものだったといえる。それは日本独自のものではあっても、西洋化の暁には淘汰されてしかるべきものということになる。

 

2-3.塩?泥?

取組前の所作のところで、なにやら奇妙な動作が出てくる。順番的に言えば、今でいう塩まきのタイミングなんだけど、なにかがおかしい。

First, squatting on their feet, opposite each other, the two began to rub themselves with dirt on the palms and arm pits. (147)

始めに、彼らは互いに背を向けてしゃがみ、両者とも手のひらやわきの下に泥をこすりつけ始めた。(拙訳)

 え、泥?その後おそらく同じ行為を繰り返している様子を描いた時には "gravel" (砂利)という単語を使っているので余計に混乱する。ちなみにペリーは同じシーンを次のように書いている。

[T]hey grasped handfuls of dirt and flung it with an angry toss over their backs, or rubbed it impatientlly between their giant palms, or under their stout shoulders. (371)

彼らは泥を一握りして、それを彼らの背後へ怒ったように投げ飛ばした。またはそれを大きな手のひらやがっしりとした肩の下にせわしなくこすりつけた。(拙訳)

こちらもやはり、やっていることは限りなく塩まきの所作に近いのに、手に持っているのは泥。この謎はそのうちちゃんと相撲史の本を確認して確かめよう。もし何か知っている人がいたら教えてください。

 

3.グリフィスによるペリー伝

ペリーが2~3ページにわたって書いた相撲の描写を必ず読んでいるはずのグリフィスだが、相撲には全く興味が持てなかったらしい。1段落どころか1行しか相撲に触れていない。

They entertained their guests with wrestling matches between the prize bipeds whose diet includes the entire fauna of Japan.

ペリーの文章から熱量と具体性をすべて奪い取ったかのような一文。しかし、二足動物(ダチョウとか)を意味する "biped" という語を使っているあたり、ペリーの差別感情だけはしっかり受け継いでいてにくらしい。
確かに実際の相撲を観ていないならしかたないかもしれないが、この一文の前には、漆器、磁器、竹などなど日本からの返礼品が並んでおり、グリフィスの思う相撲はあくまでそれらの中の一品にすぎなかったようだ。

 

 

ペリーとその周辺の人々の相撲描写を見てみた。意外と熱のこもった文章を書いてたのがペリー、事務的で客観的な記述に努めたのがウィリアムズ、とりあえず書いたけど全然興味ないのがグリフィス、という感じかな。
確かにこの記述ではアメリカ読者も相撲を野蛮なスポーツだと思うだろうし、江戸幕府や明治政府だってこれを読んだら怒るか焦るかどっちかだろう。ペリーの意外と強い相撲への関心ということも書いたけど、それは現代になってとりあえず差別感情を抜きに考えてみよう、という発想が可能になったからできる読解だ。普通にあれを読んだら、やっぱり日本人は馬鹿にされていると思うに違いない。っていうか現に馬鹿にされてたんだけどね。
しかしペリーとその周辺の人々は相撲を観てそれについて書いた最初期の欧米人である。これが19世紀の後半、どのように変化していくかはまたこれから少しずつ。