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煉獄日記

目指せ天国。

見えないものに目を向けて、

見えないものに目を向けている。なにも、生活の中にひそむ小さな幸せを見つけてほっこりしたりしているわけではない。仕事の都合上、電気について頭を悩ませているだけだ。

電流や回路の話は何度勉強しても本当に頭に入ってこない。その場しのぎを繰り返して早数十年という情けない状況。物理分野は苦手。

でも、物理の研究者たちが見ている世界には興味がある。文学畑にどっぷりはまっていると、様々な事象が言葉で構成されていく姿が日常生活でも浮かび上がってくるようになる。論理とレトリックの動きが昔とは違う解像度で見えてくる。しかしそれは観念の操作であって、決して触ったり握ったりできるものではない。

で、思うのだ。物理学もそれに似ているなあ、と。電流やエネルギーは、触ればビリビリしたり熱くなったりするぶん、レトリックよりは物質的かもしれない。しかしその目に見えないものたちがどう動いているのかを知るためには、目に見えない世界に仮説を持ち込んで、思考を中心に確認をしていくしかない。見えないものを見えるようにして、物質的な流れとして世界を再構成していく物理学。その研究者たちには世界がどのように見えているのだろう。

私がしっかりと物理を理解する日はもうしばらくやって来ることがなさそうだけど、というか一生やってこないだろうけれど、彼らが見ている世界の話はいつか聞いてみたい。あ、でもそうしたら、「言葉で説明して」という要求は彼らにとって外国語を強いるようなものなのか。物理の世界は、遠そうだ。

偶然の音楽

偶然の出会いがあった。楽しい出会いだった。

場所は近所のショッピングモールの喫煙所。思い切って購入したズボンのすそ上げが20分もせずに終わるということで、ぼんやりたばこを吸いながらスマホを眺めて時間をやり過ごそうとしていた。

「今スマホっていくらくらいで買えるの?」

左斜め前にいたおじさんがそう言った。喫煙所にいるのは私とおじさんの二人。顔をあげるとこちらを見ているおじさん。独り言では、なさそうだ。

スマホで写真や動画を撮るとどんな感じになるのか気になるというおじさんのために、先日の散歩中に見かけた猫の写真を見せる。「猫好きなの?」と聞かれ、そこからあれよあれよという間に話題は広がり、気がつけばヒッチコックイングリッド・バーグマンに入れ込んでいたという話になり、又吉の『火花』の感想を聞かれ、最後には日本の大学における人文学の今後について話していた。どういう話の流れでそうなったのかは正直よく覚えていない。ただ、なんとなく気分がよくなっていろいろ話したことは覚えている。

そのおじさんは以前、短期間ではあったが映画会社で働いていたとかで、嘘か真か知らないが、某映画批評家とも仕事をしたという話をしながら「あのころは飲み歩くのが仕事みたいなもんだったねー、楽な仕事だったわーあっはっは」と豪快に笑っているおじさんを見ているのは面白かった。

あんな真昼間にショッピングモールの喫煙所でたばこ吸いながらコーラ飲んでるおじさんなんてろくな大人じゃないんだろうが、同じくいい歳して真昼間からユニクロをぶらぶらしていた私が言えたことじゃない。そして、おそらくこの近所に住んでいるのだろうが、きっと今後会うこともないだろう。それでも、どんなろくでもない人であろうと、今後一切かかわることのない人であろうと、今日の30分間に交わした会話が妙に楽しかったことは事実であり、あの30分間が良い時間であったという記憶は今後も大切にされるべきなのだ。もちろん、私の心のなかで、ということだけど。

 

最近なぜか小沢健二にはまり、毎日毎日彼の甘い声で歌われる朗らかなリズムを享受しているせいか、とにかく気持ちが浮ついている。偶然の出会いからあんなに楽しい会話ができてしまったのも、その偶然性とオザケンの波長がなんともよく合っていたからかもしれない。ありがとう、オザケン

ちなみにタイトルの『偶然の音楽』とはポール・オースターの小説のタイトルだが、あらすじを読んでも内容が全然思い出せない。読んだはずなんだけどなあ。おかしいなあ。 読んだ記憶はあるのに内容が全く記憶にない本が多すぎる。

偶然の音楽

偶然の音楽

 

 

フツー

「フツー」が口癖の照ノ富士。フツーとは言ってられない怪我をして、それでも無理して千秋楽まで頑張ったものだから怪我が悪化してしまったそう。大丈夫だろうか。いつから復帰できるかはわからないけど、ゆっくり休んでまた強い照ノ富士の相撲を見せてほしい。

 

本当は秋場所について書きたいことが山ほどあったはずなのに、とにかく余裕がない。とてもじゃないが「フツー」なんて言ってられない。自分を励ますために「フツーだよ、フツー」なんてつぶやいてみても、眼が笑ってないことに気付くだけ。通常営業の状態がどんな感じだったか忘れそうなほど、ここ一か月ほどは焦って焦っててんてこまいである。

しかし焦ったからといって人間効率よく働けるようになるもんでもない。むしろ効率は落ちる。どんどん落ちる。特に頭を使う仕事の場合、焦燥感が冷静な論理的思考を妨害するもんだから、ぼろきれみたいなクオリティのものが量産されるばかりで使えるものはほとんど出来上がらない。効率でいったら焦らずこつこつ進めているときの10分の1以下といったところだろうか。ひどいひどい。

 

そんなとき、きまって思い出すようにしている言葉がある。

「生きていくうえで大切なのは、死なない事と、死にたくなるようなことをしない事」

ポジティブなのかネガティブなのかわからないような格言である。しかも、これが自分のオリジナルの言葉なのか、何かからの引用なのかもわからない。おそらくまだ10代だったころに生まれて初めて精神の危機に遭遇し、その場でひねり出した言葉だったように思うが確証はない。とにかくそのころから、精神的にどん底に落ちた時には、毎回この言葉に助けられている。

つらくてつらくて、焦って、胃も痛くて、冷や汗もかいて、もう何もかも投げ出したくなる時がある。そんな時には、「これを続けてたら死にたくなると思ったら、やめてよい」という自分ルールを設定している。誰かに迷惑がかかるかもしれない。信頼を失うかもしれない。それでも、死にたくなると思ったらやめよう。そう決めている。

大変無責任な考え方のように見えるかもしれないが、こんな風に考えていると「死にたいと思ったらやめよう、まだそこまでではないからもう少しがんばってみよう」という謎の発想の転換がおき、意外とつらかったことも続けられる。なんだかんだ好きで選んだ道だ。楽しめる限り楽しんでみよう、とあきらめがつく。人間の脳みそなんて意外と単純なのだ。

 


TOMOVSKY - 脳(PV) - YouTube

 

毎週のお楽しみであった久保ミツロウ能町みね子オールナイトニッポンGOLDも終わってしまって寂しいが、落ち込んだ時は久保ミツロウが番組内でかけていたこの曲を聴くとよい。

脳みそと神経の「疲労」はダイレクトに精神の状態に影響するので客観視するのはなかなか難しいけれど、鬱々とした気持ちも、泣きたくなるような憂鬱も、結局は自分のへっぽこでお疲れ気味な脳みそのせいである。おなかが痛ければ病院に、肩がこればマッサージに、そういう感覚で、憂鬱になったらストレス解消に励むべきなのだ。

というわけで明日からもがんばって生きていこう。鶴竜優勝おめでとう。

私日記(9月20日)

盛大な二度寝をした。前の晩は普段の土曜日よりも少し早く寝たはずなのに、9時に一度起きて、ふっと気を抜いたらもう午前も終わりかけだった。

二度寝をしながらふわふわした夢をたくさん見た気がするけれど、目が覚めたらほとんど覚えていなかった。でも、たぶん幸せな夢だった。恋をしている夢を、見たような気がする。気のせいかな。

1ヶ月ちかくさぼっていたジョギングを、目覚めてすぐにとりかかる。ほぼ寝てたときの格好のまま。ベッドを出てから15分には家を出ているという具合。たっぷり寝たからか、やけにやる気満々だった。近所のパン屋で朝ごはんを軽く食べ、そこからとことこ走りだす。ほんと、「とことこ」と形容するのがちょうどいいくらいゆっくりしか走れない。15分で2キロ。 それでも驚くほど汗をかくし、今回は久しぶりだったこともあって、走り終わったら顔が真っ赤になっていた。具合の悪い人みたいだった。

走りに行った川辺の道には赤くて立派な花がぽつぽつと咲いていた。こういうときに花の名前をあまり知らないことが悲しくなる。ネットで調べたらわかるけど、というかわかってしまったけど、ヒガンバナだったけど、こうやって調べちゃうから来年にはまた忘れてるんだろうな。ま、別にいっか。忘れたらまた調べるもん。

夕方は大相撲を観ながら家計簿。家計簿も最近さぼっていたことのひとつ。レシートでぱんぱんになっていたお財布がやっと元に戻った。

大相撲はながら見をしていたせいかよく覚えていない。でも大砂嵐が嘉風に勝ったこと、照ノ富士が力任せに妙義龍に勝ったことはちゃんと覚えている。あんな姿勢になっても負けない照ノ富士は白鵬みたいだった。

ご飯をつくるのが面倒だったから、犬の散歩をした後は外に出てカルボナーラを食べた。ドリンクバーをセットにしたけど、オレンジジュースを飲みながら「水でよかったな」と後悔した。けち臭い。まだ家に帰る気分じゃなかったから、スタバでホワイトモカを飲みながら『菊と刀』を読む。最近は第二次世界大戦関連の読書が多い。

夜は読まなきゃいけない本を2時間くらい読んで、相変わらず英語を読むのが遅い自分にがっかりする。ヨルタモリは中居くんがゲストだから観たら眠れなくなると思って録画。眠くなるまで読書して、1時ころ就寝。

だらだらしてはいたけれど、ジョギングして家計簿つけたら少し自分の生活が自分の手の中に戻ってきた。及第点の日曜日。

タコスよりブリトーですよね?

「コパ」というのはスペイン語でグラス、コップといった意味らしい。日本語にするならば、「一杯の酒」ってところだろうか。

 

カリフォルニア州に留学して以来、日本人にとってのメキシコ料理が主にタコスを指すことにずっと疑問を感じている。だって、タコスより、ブリトーじゃない?

アメリカで食べたブリトーの味が忘れられず、もう何年も「メキシコ料理」と見れば試してみる、ということを繰り返していた。しかしいつも、「私の知ってるブリトー」ではない何かが出てきた。中身に生野菜がたっぷり入ったもの(生春巻きみたいな)、グラタン状になったもの、やけに中身がぱっさぱさなもの、どれもこれもおいしくなかったし、そもそもアメリカで食べたものとは完全に別の料理なものが多かった。

そんな10年越しの恋のように思い続けたブリトーを、つい最近ようやく見つけたのだ。灯台下暗し。週に二度も通っている街の、駅から少し離れたところにある居酒屋めいたメキシコ料理屋。そこにはまさに、ずっと恋い焦がれたブリトーがあった。

たっぷり入った肉と豆とご飯。味付けはあのメキシコ料理独特の、スパイシーなバーベキューのような味。あたたかいトルティーヤにぐっと力を込めてナイフを刺しこめば、ソースのような肉汁のような旨味が流れ出てくる。濃厚な味ではあるが、時々付け合せのワカモレとサワークリームをつければそのバランスがまたちょうどいい。

 

しかしいかんせんメキシコ料理は基本的に量が多い。一人では(少なくとも私は)食べきれない。今までに二度友達と行ったけれど、また行きたいのになかなか誰もつかまらない。しびれをきらして、とうとう今週一人で行ってきてしまった。

量も食べられないし、お酒も飲めない。1人だったこともあり限りなくバーに近い雰囲気のカウンター席にうっかり座ってしまったけど、さすがにお酒の瓶がずらーっと並ぶ棚の前に腰掛けて「パインジュースひとつ」というのはちょっと気まずかった。その上、「ビーフブリトー、少し小さめでお願いします…」という気弱な注文。なのにちゃっかりお店の人とお話なんてしてたら、「これサービスね」と言ってリンゴまで出されてしまう。満腹を通り越して、多少胃もたれしそうだった(笑)

でも美味しかったー。大満足、超満足。お店のおばちゃんもとってもいい人。お酒が飲めなくても、入っちゃえば意外とどうにかなるもんですね。だって、メキシコ料理、おいしいし。またふらっと夕飯を食べに行こう。もちろん、パインジュースと小さめブリトーの組み合わせで!

 

そういえばそのお店の人におすすめしてもらったメキシコ料理屋があったんだ。麻布十番のフリフォーレス。「タコベルがサブウェイになったようなお店!」と教えてもらった。調べてみたら、本当にタコベルがサブウェイになった店だった。大手町、赤坂、六本木にもあるのね。今度行ってみよーっと。