煉獄日記

目指せ天国。

Rhapsody in Blue の余韻

強烈な欲望に一度とりつかれると、その欲望を満たしてやる以外にそこから抜け出すのは難しい。まるでサラ金の利子のように、満たされない欲望は日に日に膨らみ、脳内で理性の居場所を奪っていく。

サラ金の利子という比喩を用いたが、我ながらまことに的確な表現だと思う。欲望の芽が生えた瞬間にそっと摘み取ってやればなんてことはないのだ。即座に行動を起こしさえすれば、欲望が満たされた満足感と、欲望を暴走させることなく適切に処理できたことへの自己陶酔感が湧き上がり、それはそれはたまらない快感を覚えることができる。

 

しかし、問題はそのような素早い対処に失敗した場合である。例えば、ふとカラオケに行きたいと思ったとする。しかし目の前には山積みの仕事、迫り来る期限、疲れ果てた身体、プレッシャーで折れそうになる心。カラオケに行くなら、仕事の山を越えてからにしよう。そう判断するのが賢明だろう。しかしカラオケ欲が消え去ったわけではないため、思わず「カラオケに行ったら何を歌おう」なんて考えつつ、iPodで懐かしい曲を聴いてしまう。ああ、この曲は高校生のころよく聴いたな、なんて思っているとカラオケに行きたい気持ちは募り、心の中の歌いたい曲リストも長くなる。

こうなったらもう欲望の拡張は留まるところを知らない。カラオケの存在が常にちらちらしていて仕事に身は入らず、余裕ばかりがなくなっていく。ちょっと気休めというつもりで音楽を聴けば胸のあたりがむずむずし、今にもカラオケに走って行きたくなる。余裕がなくなっているためにストレスも溜まり、その思いから解放されたい一心で、カラオケほど最高のストレス発散法はこの世に存在しないのでは、などと夢想もし始める。

余裕の無さとカラオケに行きたい思いが雪だるま式に膨らんでいき、ひとり部屋で近所迷惑かと心配しつつも歌を歌い始めたりしてしまう。

 

そして、ようやくカラオケへたどり着く。こうなったら、友達なんて必要ない。自分の欲望を満たすことが最優先なのだから、むしろ一人カラオケの方が都合がいいくらいだ。さあ、思う存分、歌え!叫べ!

しかし、デンモクにならぶひらがなを見てあなたはふと我にかえり、「結局どの歌が歌いたいんだっけ?」と、曲名の大海原を目の前に立ちすくんでしまう。おそるおそる一曲いれて歌い始めても、なかなか声がのびない。イアフォンから流れる音を口パクしていたときや、お風呂で鼻唄を歌ったときにはあんなに上手く歌えた(気がしていた)のに。カラオケでマイクを手にした途端、声はのびず、次第にノドはかれ、下手な歌しか歌えない自分が悲しくなってくる。

上手く歌えない切なさと、歌いたい曲を歌いきるのは不可能という現実の虚しさに襲われながら、1時間か2時間程度の利用時間はあっという間に過ぎ去っていく。会計を済ませながら胸に渦巻くのは、中途半端な満足感と、それを圧倒的に上回る不完全燃焼のもどかしさだ。

 

このように、何かをしたいと思い立ったにもかかわらず、その思いをこじらせてしまうと、なかなかスッキリすることが難しくなるものだ。欲望に突き動かされた自分の姿の影に別れを告げられないまま、もやもやとした日々が続いてしまう。だから、何かをしたいと思ったら、ちょっと無理してでも時間を作ろう。そうすればきっと心が晴れて、仕事の効率だってうなぎのぼりに違いない。

さ、明日こそカラオケ行くぞ。だって久保ミツロウの歌うRhapsody in Blue が頭から離れないんだもの。

クラシコ書店

初めて訪れた小さな書店や古本屋では、なるべく何かしら買うようにしている。

店に足を踏み入れ、本棚の間をじっくりめぐり、目に留まった本を手にとって、店主のいるレジへ持っていく。その一連の動作を楽しんで、やっと古本屋を味わったという気持ちになれる。

あと、本を買った時の店主の反応を見るのも好き。無表情のままのおじさんもいれば、口もとだけにふっと笑みを浮かべるおじさんもいる。さっと包んで「ほら帰れ」みたいな態度のおじさんもいるし、丁寧に袋に入れてにっこりと「ありがとうございます」と言ってくれるおじさんもいる。(なぜ古本屋の店主はおじさんが多いのか)

どのような態度が好きとか嫌いという話ではない。その店主の反応を含めて、「ああ、こういう店なのか」と感じることが楽しいのだ。どんなぶっきらぼうな店主でも、たいていその店によく似合っているから面白い。

 

今日は神楽坂の路地にある、クラシコ書店という古本屋に行ってきた。

前にも店の前まで来たことはあったのだが、そのときは運悪く店が閉まっていたので、お店の中を見たのは今日が初めて。小さな扉と照明をおとした店内はちょっと入るのに緊張した。でも、そのちょっとした緊張感が、店内の本の匂いをかいでふっとやわらぐ瞬間が好き。

本だけでなく、きれいな文具も取り揃えてある、見ているだけで幸せになれるお店だった。本に関しては、神楽坂にちなんだ雑誌のバックナンバーがあったり、文化人類学の古典的研究書があったり、「暮らし」がテーマになるような本が多い印象だった。食に関する本も多かったな。

今日買ったのは以下の2冊。

浪川寛治『俳諧 蕎麦ばなしーーそばの俳句でそばを読む』(グラフ社

土居健郎『「甘え」の構造』(弘文堂)

『「甘え」の構造』は前から興味があった本だったのでこれを機に購入。蕎麦のほうは全く知らない本だったけど、蕎麦と俳句という取り合わせに心惹かれて購入。

俳諧 蕎麦ばなし』を少しだけ読んで、「あ、今は新そばの季節ね」と気がついた。たまたま手にとった本が今の季節によく似合う本だと嬉しい。これを読み終えたら、また新しい蕎麦屋の開拓に行こう。

シェイク シェイク ブギーな胸騒ぎ

たまにはフレッシュなSMAPネタでも書きましょう。

NHKの長寿番組「のど自慢」の70周年特別企画として、今日8月30日の放送にSMAPの5人が駆けつけた。ふだんよりも30分長い1時30分までの拡大版となった番組の最後で、SMAPはわきたつ観客を前にSHAKEを披露。コンサートでは定番の木村拓哉による替え歌も見られた。

 

SMAPの大ヒット曲はバラード系が中心なため、アップテンポでありながらミリオンヒットとなったSHAKEは、SMAPがゲストとして出演した番組で歌われる機会も多い。いかにも90年代の若者らしいあっけらかんとしたお気楽な歌詞は、どんな番組にも当たり障りのない曲だろう。

しかし最近では、歌番組でSHAKEが歌われると、いつも何かぬぐいきれない違和感があった。あの90年代の空気をまとった曲が、現代のステージセットや衣装と噛み合っていないのだ。アイドルでさえ洗練された雰囲気が求められる近年の風潮のなか、SHAKEは少々時代遅れなのかもしれない。

その点、今日の「のど自慢」は素晴らしかった。白いシンプルなスーツの衣装と狭いステージ。「のど自慢」のセットを使っているため、もちろん過剰なライトアップもなし。「クール」とか「スタイリッシュ」なんて形容詞とは程遠い歌だった。というか、はっきりいって、なかなかにダサかった。しかし、なぜかSHAKEはそれが合うのだ。演出が少なくSMAPの下手なダンスと歌唱力が明らかになってしまう、そんなごまかしのきかない状況で歌われるSHAKEは、まぎれもなく1996年にSHAKEという歌が大ヒットしたときの、「あのSHAKE」だった。

まるで売れてないアイドルのような姿でSHAKEを歌う5人は、不慣れな状況になにやら照れているようでもあった。こんないかにもアイドルらしいパフォーマンスなんて、最近はする機会ないものね。

嵐を代表とするジャニーズの後輩たちはパフォーマンスそのものがうまく、アイドルっぽさを売りにするアイドルはいつのまにかあまり見かけなくなった。「アイドル」という文化が好きなファンにとっては、少々寂しい時代になっている気がしてならない。

 

「アイドルらしいことさせられちゃってるよー」という心の声が聞こえてきそうな今日の彼らのパフォーマンスは、SMAPファンとしての初心を思い出させてくれる最高の数分間だった。

もうすぐ最高のおやすみなさい

あの父娘は結局どうなったんだっけ?

台場まで出かけたついでに、最近何かと話題のあの家具店に行ってきた。日本最大級であることが売りだという有明ショールーム。気難しそうなお父さんの「ニトリさんやIKEAさんとは違うんです」発言はいろいろ波紋を呼んでいたけれど、今でも十分ニトリIKEAとは格が違う雰囲気出てたよ。

素敵な接客を受けて、とても幸せなお買い物ができました。行ってよかったです。

 

いつまでもダサい服装をしているせいか、普段から年齢確認はしょっちゅうされるし、ちょっと高級なお店に行くと「おまえどうせ何も買わないだろ?」という店員さんの視線を感じることもしばしば。(自意識過剰だよ、と言われるかもしれないけれど、人のそういう意識はにじみ出てしまうものなのですよ・・・)でも、そんな寂しい気持ちにさせられることも全くなく、親切な店員さん(Sさんと呼びましょう)がみっちり相談にのってくれた。

お店の入り口で「ベッドを見に来て、」と言った瞬間にすっと案内してくれるSさん。Sleep AdvisorというバッジをつけたSさんは、広い広いベッド売り場を隅から隅まで知り尽くした様子で、各寝具についてとても詳しい説明をしてくれた。

 「どうぞ寝てお試しください」と何度言われたことか。とにかく「試し寝」を強く勧められ、何種類ものブランド、固さ、サイズのマットレスに次々と寝っころがった。寝返りもうってみるといいとアドバイスをいただいたのでお言葉に甘えてごろごろし、ただ寝っころがるのと寝返りうつのでは違うなーと実感してみたり。高いお買い物とあっていろいろ迷い、あっちこっちでごろごろごろごろしてきた。ごろんとする度に、「このベッドだとちょっと沈みすぎかな」などと言うと、「それでしたらこちらを」と次々に候補を見せてくれるSさんは神々しく見えてくるほど頼もしかった。

 

 結局マットレス、枕、フレーム、マットレスパッド、ボックスシーツというフルセットを2時間近くかけて選んだ。その間中「何かご不明な点や不安な点はありませんか?」と繰り返し聞いてくださるSさん。そこまで言われると「不安な点、ないかな」とこちらも真剣に考えてしまい、徹底的に満足がいくまで話し合ってのお買い物となった。

いいモノを買うことだけが「いい買い物」じゃないんだな。あれだけ見事な接客を受けると、今後も大事にしたい家具はこの店で買いたいな、という気持ちに自然となる。

配送予定は9月9日。これから約2週間、たーっぷりワクワクしよう。

読書感想文もたまには書きます

又吉直樹『火花』を読んだ。

『花火』と間違えられまくっているタイトルだが、しょっぱなから花火大会のシーンなもんだから「まぎらわしいわ!」と笑ってしまった。

火花

火花

 

 

吉祥寺の猥雑さを感じさせる濃密な文章と、若者の青くささに満ちたちぐはぐな会話文。いかにも芥川賞、いかにもデビュー作という趣の作品である。語りたい、語りすぎてはいけない、そんな複数の欲求と抑制の間で揺れ動く文章がなかなかに魅力的だった。

そして語り手としての主人公がいい。人物としての徳永は(それこそ過去の筆者を思い起こさせるような)暗い若手芸人なのだが、彼は神谷という「天才肌」の青年に無条件に惚れ込み、彼の振る舞い、言葉、感覚を激賞する。エキセントリックで変態的でもある神谷は確かに若者の目に映れば天才肌に見えるかもしれない。しかし、最終的に芸人としてある程度の地位を手に入れるのは徳永のほうだ。神谷は天才的芸人というよりも、むしろ天才的永遠の少年なのである。

神谷と徳永ふたりだけの閉じられた関係性が、時折他者の目にさらされる瞬間がやってくる。例えば神谷が開いた合コン。神谷を信じきる徳永はうまく笑いをとれない自分を責めるが、軽々しく露悪的な笑いを披露し続ける神谷の方がよほど奇妙だ。または井の頭公園で出会った赤ん坊に蠅川柳を延々発表する神谷。いないいないばあをする徳永に冷ややかな目を向ける神谷はもはや単なる奇人である。こうして徳永の語る神谷像にはだんだんと亀裂が生じてくる。そして、最後に彼は気づくのだ、「僕の前を歩く神谷さんの進む道こそが、僕が踏み外すべき道なのだと今、わかった」(115)と。

徳永が最後に「僕達は世間を完全に無視することは出来ないんです。世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです」(142)と神谷を責めるシーンには感動した。このセリフには必死に師を乗り越えようとする徳永の痛々しさが詰まっている。神谷の「才能」が「幼さ」にすぎないことを暴き、徳永は独り立ちを達成する。

 

読んだだけでなんとなく「世間の波にのまれた、負けた」という気分になる特異な芥川賞受賞作だったが、結果的には読んでよかったと思う。その悔しさゆえにこうしてわざわざブログに感想書いてるんだけど。せっかくだから『スクラップ・アンド・ビルド』も読んでみようかしら。