煉獄日記

目指せ天国。

ゴーイング Goro's ウェイ

最近、能町みね子が「オネエ」として日テレの某番組で紹介され、それに対し本人がツイッタ―で反論をした結果、他のメディアでもその論議が取り上げられ何やら能町さんの周辺が騒がしいことになっていた。(一応敬意をこめて最初だけ「能町みね子」と書いたけど、やっぱり変な感じがするから「能町さん」でいいや)

その一連の流れの中で能町さんがリツイートし、私の目に留まったのが以下の画像だ。

 このコラムを私はこのときはじめて目にしたのだが、読みながら、泣いた。SMAPのここ数年のことを思い、その中で稲垣吾郎がひとり貫いてきた態度を思い、そんな稲垣吾郎をひたすらに信じていようと祈るような気持ちで見ていたことを思い、泣いた。

 

まだSMAPがデビューして間もなかったころ、仕事であるにもかかわらず、ジェットコースターに乗ることを断固拒否した稲垣吾郎がリーダーである中居正広に殴られたという、ファンの間では有名な逸話がある。これは、「吾郎ちゃんのわがまま」として語られることも多い逸話だが、はたして本当にそうだろうか。

仕事とはいえ、もしもその本人が心底やりたくないと思っていることをやらされたら、それは単なる暴力なのではないだろうか。「仕事」という皮をかぶった、巧妙ないじめなのではないだろうか。

稲垣吾郎は、私が見ている限り、そういった文字通りの痛々しさを売りにするような番組にはめったに出ないし、それに、たとえ最後には何かをすることになったとしても、少なくとも拒絶の意志を示す。彼は「テレビの常識」に対し、さも当たり前のように反抗し、「嫌なものは嫌です」とはっきり態度に見せる。そういう稲垣吾郎だからこそ、私は安心して応援し続けることができた。ウケるためならなんでもする稲垣吾郎なんて、私は絶対に見たくない。

 

そして、ゴロウデラックス。

いつも文化人然としたメガネをかけ飄々とした態度でゲストと接する稲垣吾郎は、SMAPでいる時の彼とは別人のようだ。少なくとも、SMAPが作り上げてきた「アイドル」のイメージとはかけ離れた表情である。そして彼は、本の話をする番組という基本スタンスを決して崩さず、ゲスト本人が見せたくない表情を無理に引きずり出すこともない。テレビなのに、なんだが雑誌用のインタビューを見ているような番組だと思う。

作家なんて本来表に出てくる職業ではない。ましてや、芸人さんのように「テレビの常識」でもみくちゃにしていい相手じゃない。だからこそ、目の前にいるゲストが当たり前に話すことを当たり前にきちんと受け止め、「作家」としてテレビに出てくれた相手を尊重する稲垣吾郎のMCは、あの番組の最大の強みだと私は思っている。

 

(ああもうこれ以上の内容はこの文体では語れない。稲垣吾郎への愛が止まらない。)

そうは言っても実のところ、能町さんが出た回のゴロウデラックスも私はおそらく観ていたし、その時点で能町さんが元男性であることも知っていたと思うのだけど、その回の内容をほとんど覚えていないんだよな。吾郎ちゃんが『雑誌の人格』について話している映像はぼんやり浮かぶので、たぶん観ていた、はず…。

でも少年アヤちゃんが出た回はよく覚えている。15年以上見てきた吾郎ちゃんが、世間(というかテレビ全般)では性的マイノリティという括りだけで語られがちな人に対して、どう接するのか少し不安だった。少年アヤちゃんは当時「オカマ」と呼ばれること自体にたいしてとても揺れ動いているのが本を読んでもよくわかったから。本もその点に触れていないわけではなかったし、それがどう語られるんだろうってそわそわしていた。今更吾郎ちゃんのファンでなくなることはあり得ないのだけど、でも、もしかすると「がっかり」させられてしまうかも、という不安は無かったといえば嘘になる。だからこそ、少年アヤちゃんの回を見終えた時は、すごくほっとしたし、「やっぱりこの人のファンでよかった」と思った。

 

「テレビの常識」をあっさりと無視する稲垣吾郎という王子様を、私は「これぞ本物のアイドル」と思ってこれからも全力で応援していきますよ。SMAPがこれからどうなっても、吾郎ちゃんは今の姿勢を貫いてほしい。

 

言いたいことが収拾がつかなくなってきたからこのくらいにしておこう。 SMAP論をあれもこれも書きたいと思いつつ、やはり締切もないブログというメディアでは前回の香取慎吾論のようなクオリティまで推敲することは難しくて、結果的に何も書けないままなあなあになっていた。これはブログだ、ブログクオリティで諦める。アイディアメモのレベルだって、積もり積もればいつか何かにできるやも。

というわけで今回は、SMAPで、というかこの世で一番大好きな吾郎ちゃんについて書きました。次は木村拓哉について書きたいよ。あーでも、コンサートうちわの話も書きたい。まあ、とにかく今日のところはおやすみなさい。

英検1級について【その二】

【その一】を書いてから少々時間が経ってしまいましたね。いい加減、合格した際の面接について書きましょう。

 

二回目の受験(2015年度第1回)では、以下の点数で合格しました。

①Short speech 18/30(+3)

②Interaction  24/30(+6)

③Grammar and Vocabulary  16/20(+4)

④Pronunciation  14/20(±0)

合計 72/100(合格ライン60点)

 

なんだかんだこうやって比較してみると、わりと順調に点数を伸ばしたんだな、と我ながら思う。試験後の手ごたえとして Interaction は上がるだろうと踏んでたが、正直 Short Speech と Grammar and Vocabulary は前回と同じ、またはそれ以下を予想していた。

思い出せる範囲で、当日がどんな感じだったか書きましょうか。

事前の準備でトピック選びは15秒程度と思っていたにも関わらず、トピックカードを渡されてから約30秒後にトピックを変更するという賭けにでた。最初に選んだトピックは「男女平等は社会で十分に達成されているか」という内容。ジェンダーについては常々思っていることがあるし、と考えてこれを選びかけたが、やはり「常々思っていること」が多いからこそ論点が混乱。第一回と同じ過ちを繰り返してはならないと思い、とっさに「スポーツは商業化されすぎているか」というトピックに変更。

そうは言っても私スポーツなんて全然知らない。知ってるのなんて相撲くらい。そういえば相撲ってテレビ中継のために仕切りに関するルールが変わったんだった。これって商業化の影響って言えるんじゃ?などと考えつつ、浅すぎる知識の中から使えそうな決り文句を頭の中でピックアップ。

スピーチとして、「商業化されすぎている」という立場をとり、①テレビ放送の開始により相撲はルール変更を強いられたが、これは商業化の悪影響である、②スポーツ選手がスポーツ以外の仕事をする機会が増えることは良くない、という2点を理由として述べた。はっきり言って、「スポーツは商業化されすぎているか」というトピックに対してはどちらも少々外れた内容。それでも6割(合格ライン)の点がとれたのは、相撲についてかなり具体的な論を述べた、時間配分が良かった、沈黙の時間をつくらなかった、などの理由によると思われる。

 

次は面接官との質疑応答。これが今回試験では最も成功した点であり、スピーチに比べれば自然な英会話に近い状況のため、得点しやすいポイントだと思う。質問は「スポーツ選手はスポーツに専念すべきか」に始まり、私は自身のスピーチの論旨もあったため「その通りだ。彼らはスポーツ選手として活躍するために企業に雇われているのであり、その他の活動は練習の妨げになるのですべきではない」と返答。最初の質問でこう答えてしまった以上、その後も「スポーツは純粋にスポーツとして行われるべきか」「東京オリンピックについてどう思うか」など割とオーソドックスな質問が続いても、「金の絡むスポーツなんかスポーツじゃねぇ!」という態度で答え続けた。今思えばやたらとラディカルな意見を言っていた気もする。それでも論旨が乱れるよりはよいのです。

最後に「東京オリンピックの施設建設費が無駄だと思うなら、何にお金をつかうべきか?」というスポーツから外れた質問が出た時には、"victims" "natural disaster"といった超基本単語が出てこず焦ったが、"To help people in Fukushima and Hiroshima"という曖昧な文章で逃げた。ここで原発や自然災害に関する英単語を滑らかに使えてたら、単語の点が少しは上がってたかもしれない。

 

こんな感じで2度目の面接試験は終わった。正直「これで合格点超えるのか」という驚きの方が大きい。英検対策の本を読むと、論旨ががちがちに固められた完璧なスピーチが載ってて「こんなの無理!」と思うが、そんなのは求められていないらしい、というのが今回合格して抱いた印象である。

少々論旨が外れても、滑らかな英語で話し続けること。面接官の質問にはとにかく真正面から答えること (Do you~? とかDoes it~? って聞かれたらとにかくYes,Noを言うとか)。英検一級を受けるほどの人の中には、幅広い知識を持った論理的思考に優れた人も多いだろう。しかし、そういう人が「正解」を考え始めると、それはとてもじゃないが2分では語りきれない内容になる。難しいことは考えず、新聞やニュースで頻繁に見聞きする程度の浅く広い知識を当たり障りない範囲でペラペラと話せばいい。それが今回の面接試験で最も強く感じたことだ。知識の基準としては、中学受験の社会といったところだろう。

 

英検一級といえど、これは「英語」の試験である。確かにTOEICとは比べものにならないほど難しいとは思うが、海外旅行に不便のない程度の会話力と、新聞が辞書なしでもだいたい読める程度の読解力があれば、意外と対策次第では受かるんじゃないの、と思った。

「英検一級なんて無理!」とびびっている人も、そんなに恐れず受けてみればいいと思う。そして、こんなへらへらしてても受かることもありますよ、とこれから受験する人たちにはぜひ知ってほしい。

この記事が、面接試験対策に怯えてる人たちにとって、少しでも慰めや励ましになりますように。

桃の香り漂うテーブルにて

なんだかひと月ほど前には「桃が食べたい!」と大騒ぎしていた気がするけど、誕生日の前後に一週間ほどずっと「桃!桃!」と言っていたら、優しい皆さんがたくさん桃をプレゼントしてくださり、8月に入ってからは桃に囲まれた幸せな生活をしています。

 

今年最初に口にした桃は、近所のパティスリーで売られていた「まるごと桃」というケーキ。

その名の通り、皮をむき種をとりのぞいただけのつるつるの桃に、少しだけカスタードクリームが入れられたケーキでした。とてもいい桃を使っているようで、カスタードにも負けない桃の甘みと、ほんのわずかな酸味と、とろっとしたクリームの組み合わせが最高でした。

 

次に食べたのは誕生日プレゼントとして母が買ってきてくれた千疋屋の桃。ピンクの桃と白桃を2つずつもらいました。

どちらも完熟していて、皮も気持ちよくむけ、実の柔らかさも甘みも文句なし。あと、縦にくるっと包丁を入れてひねるように種から実をとる剥き方をしたんですが、全く種のかたい部分が実に残らず、「これが高い桃か!」と圧倒されました。

白桃の方が値段は高かったようですが、私の好みとしてはピンクの桃の方が好きだったかな。白桃は少し酸味が強く、さっぱりとした味わいでした。もちろん酸っぱいわけではなく、上品な酸味です。

 

誕生日の少し後には、twitterで騒ぐ私を見た従姉妹が箱詰めの桃を送ってくれました。初めて食べたわ、新潟県の桃。

届いた直後はまだ青い感じだったので、数日置いておいたらリビングにふわふわと桃の甘い香りが漂い始めました。熟れた果実が放つ、このいかにも果実らしい生命力に満ちた香り。箱詰めになった果物はこの世で最も愛すべきもののひとつだと思います。昨日そのうちのひとつに包丁を入れてみたら、するっと皮がむけてまさに食べどきでした。あと4つもあるし、ひとつぐらいゼリーかなにかにしてみようかしらん。

 

他にもコージーコーナーの桃ゼリーをもらったり、今月末には桃をふんだんにつかったアフターヌーンティーに行く予定が入ったり、なんだか桃に愛される夏を過ごしています。

茄子もトウモロコシも美味しいし、やっぱり私、夏が好きだわ。うっかり熱中症になりそうな酷暑はもちろん嫌だけど、それでもやっぱり、夏が好き!

なだめすかす技術

昨日の夜、友人から職場での人間関係に関する相談のような愚痴のようなメールが届いた。やさぐれた気持ちになっている彼女を、私は「自分が気持ちよくなることをしよう」と言って慰めていたのだけど、そう言いながら、「私、いつの間にこんなことできるようになったんだっけ」と首をかしげてしまった。

 

神楽坂で見つけたおいしいお蕎麦屋さん(蕎楽亭)で二色そばを堪能し、寝不足でいまいちはかどらない中やるべきことも少しはやり、かもめブックスで食にまつわる本を2冊買って、そして夕方には初めて訪れたカフェ(SKIPA)で素敵なハーブティーとプリンを味わいつつ読書を楽しんでいた私は、友人からのメールを見た帰り道の電車ではたいそう満たされた気持ちでいた。

でも、ふと、「なんで私は今日こんなにゆるゆると過ごしているんだろう。なんだか低空飛行だ」と思った。

 

おととい、高校時代の友人から結婚の報告があった。おめでたいなあ、結婚式に行くの初めてだなあ、と祝福の気持ちで満たされていた。結婚式って何を着たらいいのかな、とか、結婚式のマナーとかよく知らないけど大丈夫かな、とか、そわそわ考えるのもまた楽しい。

心の奥の裏側あたり、もっと具体的にはみぞおちの奥のちょっと肋骨よりのあたりが、すくっとしたのは、気のせいだと思うことにした。

 

かもめブックスで買った本のうち一冊は、益田ミリ『すーちゃんの恋』であった。この作品のテーマの一つは結婚と出産。「お母さんになる人生と お母さんにならない人生」(12頁)についてぼんやりと考えるすーちゃん(37歳独身、彼氏なし)は、ちょっとした哲学者だった。

あと約10年か、と思いつつも、こんな風にちょっとだけ満たされている、でも実はけっこう悩んでる、そんな人生も素敵だな、と思った。

 

電車からおりて家までの道のりを歩く途中、やっと、その日いちにちの低空飛行の理由に気付いた。私は、まだまだ大人になることがよくわからないなんて言っている自分が、ちょっと悲しいのだ、と。

最後に付き合っていた恋人と別れたのは二年前。それ以降は驚くほど何もない。そして、手に職があるわけでもなし。安定した仕事があるわけでもなし。家に帰れば同居している母。2人でテレビを見て笑ったり、たまに喧嘩もしたりするけど、お互い近づきすぎないように、深刻になりすぎないように、気を付けながら生きている。

穏やかな雪のように少しずつ少しずつ重なった不安が、この数日のいろいろで、心の体力が落ちて、「重いよー」となっていたらしい。就職とか結婚とかいろんな岐路をぐんぐん通り抜けていく友人たちを見ていると、私の中の立派な私が「いつまでいじいじしているの?」と幼い気弱な私を責めてくる。

 

そうなったときに心がどん底まで沈まないためのケアができるようになったのは、たぶん成長と呼んでいいのかな。孤独には耐えられる。孤独が絶望に化けるのを、ちゃんと止めれば大丈夫。孤独でも、おいしいものはおいしいし、気持ちいいことは気持ちいいし、面白い本は面白い。だから、絶望する必要はない。

こうやって自分で自分を上手にケアしながら毎日を過ごせば、すーちゃんみたいにちょっと楽しく生きられるかもしれない。そんなことがわかり始めた、誕生日の一週間後でした。すーちゃんありがとう。

 

すーちゃんの恋 (幻冬舎文庫)

すーちゃんの恋 (幻冬舎文庫)

 

 

帰り道にこっちも買っちゃった。こちらもとってもいいお話だった。

世界は終わらない (幻冬舎文庫)

世界は終わらない (幻冬舎文庫)

 

 

ニラとレバー

最近少々ばたばたしていて、毎日昼ごはんは夕方ごろに食べるコンビニのおにぎり(かパン)みたいな生活をしていたら、ばてた。思いっきり夏バテた。

夏バテをする、仕事がはかどらない、夜焦る、寝不足になる、翌日もっとバテる、みたいな悪循環からここ数日でようやっと抜け出し、「さあ栄養のあるものを思いっきり食べるぞ!」と思ったので、初めて自宅でニラレバ炒めを作ってみました。

そういえば、これってレバニラ?ニラレバ?ググってみたら、どっちでもいいみたいですね。しかしあまり頻繁に作るメニューではないため、自分の中でも呼び名が混乱しています。。。

 

小さい頃はレバーが嫌いで、「こんなモソモソした臭い肉のどこがいいんだよ!」と思っていたが、味覚って変わるものですねえ。いや、正直今でも火を通したレバーのもそっとした感じはあまり好きではないかもしれない。でもあのモソモソ感も含めて、いかにも栄養の塊というあの雰囲気が好きだ。これは味が好きというのとはちょっと違うだろう。なんというか、象徴としてのレバーが好きなのだ。

そんなわけでもちろんレバーを自ら進んで購入したこともなかった。スーパーマーケットでレバーを購入したのは今日が初めて。下ごしらえをするのも初めて。あまり下ごしらえが必要な食材を買うこともないので、料理してるぞーという気持ちになれるのもニラレバ炒めを作るいいところ。

 

レバーの下ごしらえとしては、まず水で洗って、牛乳に30分くらい浸しておいて、それからまた水で洗って、水をきった。本当は最後にキッチンペーパーで水気をきるべきなんだけど、キッチンペーパーが残念ながら見つからずザルでせっせと頑張るはめに。そのあと片栗粉を軽くまぶして、これで下ごしらえ終了。

で、レバニラを作ったわけだけど、これは臭みがないっていうのかしら?レバーそのものがそもそもあまり好きじゃないから、どこまでが「臭み」と呼ばれるものかよくわからん。まあでも、モヤシとニラをたっぷり入れて、たくさん肉と野菜がとれたのでとりあえずそれで私は大満足です。

半分くらい残っちゃったし、明日はこれをラーメンにでものっけてみようかな。夏とはいえ暑すぎるような気候が続いていますが、こうやって料理をしてしっかりご飯を食べる過程はさぼっちゃだめですねー。

 

そういや英検についてまだ書いてないや。ま、それはまた今度。

だって今日は、初めてレバーを自分で買った「レバー記念日」ですもの。