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煉獄日記

目指せ天国。

食の喜び

食べることが好きだ。そんなの誰だって好きだ、と言われるかもしれないけれど、私は数年程前までは正直それほど食に興味はなかったし、それにも関わらず現在の執心ぶりは並以上ではあると思う。

しかし、食にこだわっているからといって、お金をかけているとか、時間をかけているという訳ではない。ただただ、食べる時に食べることを熱心に喜ぶ。「美味しい」という思いをより詳しく言語化し、そしてその言語化された味をさらに象徴的に楽しむ。こうして食事をひとつの体験として仕立て上げ、1日に数回も巡ってくる至福の瞬間へと変化させる。そういうことが、楽しい。

 

小さなころから食に関心の薄かった私がこういう食事の楽しみ方をするようになるまでには、二段階の変化があったように思う。第一段階は身体が弱ったこと、そして第二段階は他者と食を共有する機会が増えた中で味覚の言語化を学んだことであった。

第一段階の身体が弱ったことというのは、何も大きな病気をしたとかそういったことではない。ただ、食べられる量がここ数年で大幅に減少し、雑なものを食べると身体に影響が出るようになったのだ。つまり、単なる老いの一種である。(まあまだそれを「老い」と呼ぶような歳でもないけれど)食べられるものの量が減った結果、適当なものを腹を満たす目的のためだけに食べることがなくなり、何かを食べるたびに「今は何が食べたいか?」と考えるようになった。すると、不思議なことに、空腹にさいなまれ続けた十代のころには全く魅力を感じなかった野菜や豆類、海藻といった食材を「食べたい」と感じる自分がいた。体の欲望に耳を澄ませ、その欲望に従順になることで、それぞれの素材を摂取する喜びはそれまでとは全く別の種類になったように思う。

第二段階は、様々な環境の変化の中で起きた偶然の機会ではあったのだが、今でも私に味覚の言語化の喜びを教えてくれた彼らには感謝している。その一例をあげるならば、具体的な話になるが、私はラーメンの海苔がずっと好きではなかった。スープにつかった部分が「べちょっとしている」としか思えず、ラーメンが出てきたらとりあえず初めに「処理」してしまうような感覚であの海苔を食べていた。しかし、その当時付き合っていた彼は「しばらく置いておくとラーメンのスープが海苔にしみ込んで、スープにも海苔の風味が出て、それがおいしい」とその海苔を表現し、私はそれを聞いた瞬間文字通りひざを打った。それ以来私はラーメンの海苔が好きになり、そして味覚を言語化することの偉大さを知ったのだ。結局のところ、私はその食材や料理を「好きではなかった」のではなく、単に「楽しみ方を知らなかった」だけではないか。積極的に味覚を言語化する友人たちと食事をする機会はそれ以降も定期的に訪れ、そして私はその中でたくさんの食の楽しみ方を学んだ。

 

こうして身体の声に耳を傾け、味覚に言葉を与えることで、私は食べることの魅力に開眼した。面白いことに、食事の楽しみを知って以来、好き嫌いも減ったように思える。「なんか嫌」という大雑把な感覚を、体のニーズや適切な語彙と照らし合わせることでより正確に把握できるようになり、その結果「風味」として感じられるものが増えたのかもしれない。

今週は、どんなおいしいものを食べようかな。