煉獄日記

目指せ天国。

老犬と暮らす

犬の眠りは浅い。ちょっとの物音や振動でもすぐに飛び起きる。すっかり飼いならされた犬でも、もともとは野生のオオカミだったことを思い出させてくれる瞬間だ。

うちの犬は現在13歳。すっかり老犬である。若いころはあんなに騒がしい犬だったのに、最近では用のないときはいつも寝ている。で、その眠りが深い。それも、犬らしからぬ深さである。

もうきっと耳も悪いのだろう。昔は家の鍵を開けると玄関まで尻尾をふりふり走ってきたのに、最近では耳元で名前を呼んでようやく「あれ、帰ってきたの?」みたいな顔をするといった調子だ。ちょっぴり寂しい気もするが、おとなしくなった老犬とだらだらと暮らすのも悪くはない。

 

しかし、老犬。13歳。犬の寿命はそれほど長くない。うちのような中型犬なら、15年生きたらもう十分、というくらいだろう。

今日リビングで作業をしていたときふっと犬を見ると、いつも通り熟睡している。ちょっとその睡眠を邪魔してみたくなって頭を撫でてみる。反応がない。つまらないので今度は名前を呼んでみる。反応がない。ふっと不安がよぎってたたいたり揺すったりしてみる。それでも反応がない。さっと血の気がひいて、思わず犬を抱き上げ大声で名前を呼ぶ。やっと起きた。いつになく強引に起こされて、「え、なに?」みたいな顔をしている。

これはもう、眠りが深いとかそういうことではなくて、やはり老犬だからなのだろう。もちろん今日は本当にただ熟睡していただけだったけれど、そこまで熟睡しているということ自体が犬にとっては異常事態なのだから。いつかこうやってぐっすり寝ている最中に本当に逝ってしまったどうしよう、と思ったら寂しくてたまらなくなってしまった。

 

ずいぶん昔、『いぬのえいが』という短編映画集に入っていた「ねぇ、マリモ」という作品を見て号泣したことがあった。そのときはまだ、犬の死はあくまで想像上の何かでしかなく、いつかくる日を思って泣いていた。

一年ほど前、『犬往生』という漫画を読んだ。老犬介護と犬の死というテーマはあまりにリアリティがあって、読みながら泣いたし、それ以上に落ち込んだ。私には、愛犬の死に耐えられる自信がない。

自信がないと言っていても、いつかその日はやってくる。そのとき私はどうなるのだろう。ペットロスなんて言葉があり、それはペットを飼っていない人から見れば「犬や猫の死を経験する悲しみ」という抽象的な意味にすぎないかもしれない。しかし、13年ずっと一緒に暮らしてきた犬の死、という具体的な未来への恐怖は、そんな言葉には回収しきれない何かである。人が言葉の無力さや言葉の暴力性に気付くのは、あまりに個人的であまりに深い悲しみに直面したときなのだろう。

 

愛犬との暮らしがあとどれくらい続くのか、数か月か、数年か、それはわからない。でもいつか来る別れの時に悔いなくあの子を送り出せるようにしておかなければね。

 

犬往生 老犬と過ごした21年間

犬往生 老犬と過ごした21年間

 

 

九州場所徒然

腰を据えて相撲を見てる暇がないのが悲しい。とりあえず、だらだらと思ったことを書いておきたい。

 

まずは、臥牙丸。12日目、勢との取組。立ち合いも素晴らしくずんずん押す臥牙丸。「ガガちゃん調子いいね!!」と思った瞬間、土俵際でパタリ。悲しげな顔できょろきょろと審判たちを見回し「物言いは?」と言いたげな臥牙丸。いや、残念ながら、臥牙丸が倒れる方が早かったね…。

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北の富士さんの「インタビュールームで泣いてもらえばいいじゃん」には思わず噴き出しましたが、こういうところで本当に泣いちゃう臥牙丸は相変わらずかわいい。そしてそんな風に感情を丸出しにしても、もはや誰にも何もとがめられない臥牙丸すごい。朝青龍のガッツポーズが昔非難されまくってたけど、今の臥牙丸ならガッツポーズだろうがバンザイだろうが許されるんじゃないのって雰囲気。子どもみたいに素直な臥牙丸はやっぱり見てて楽しい。

 

そして、大砂嵐はなー。大砂嵐なんだよなぁ。また怪我をしてしまって心配だけど、とりあえずこれを機に相撲の技術向上に励んでほしい。いや、これは前から言ってるけど。あの気迫と筋力に技術が加われば本当にいい力士になれると思うのよねぇ。今のままじゃまず三役以上の力士には太刀打ちできないわよ。

 

あと今場所見てて楽しかったのは、もちろん嘉風、あとは蒼国来、魁聖松鳳山、御嶽海、(中盤からの)逸ノ城あたりかな。逸ノ城のムラはどうにかならないのかね。琴奨菊も途中から見事に失速してついには休場だし。まあそういうのをちまちま言いながら観るのも相撲の楽しみだなぁ、と最近は思うようになりました。

さーて、誰が優勝するのかしら。初めて見た「強い日馬富士」は本当に強くてかっこよくて、このまま日馬富士に優勝してほしい気もする。でも、「やっぱり白鵬」と言いたい気もする。鶴竜はもうちょっと頑張れ。頑張ってももう優勝は無理だけども。最後くらいかっこいい相撲を見せてくれーと思う。明日はリアルタイムで観られるといいなあ。

 

見えないものに目を向けて、

見えないものに目を向けている。なにも、生活の中にひそむ小さな幸せを見つけてほっこりしたりしているわけではない。仕事の都合上、電気について頭を悩ませているだけだ。

電流や回路の話は何度勉強しても本当に頭に入ってこない。その場しのぎを繰り返して早数十年という情けない状況。物理分野は苦手。

でも、物理の研究者たちが見ている世界には興味がある。文学畑にどっぷりはまっていると、様々な事象が言葉で構成されていく姿が日常生活でも浮かび上がってくるようになる。論理とレトリックの動きが昔とは違う解像度で見えてくる。しかしそれは観念の操作であって、決して触ったり握ったりできるものではない。

で、思うのだ。物理学もそれに似ているなあ、と。電流やエネルギーは、触ればビリビリしたり熱くなったりするぶん、レトリックよりは物質的かもしれない。しかしその目に見えないものたちがどう動いているのかを知るためには、目に見えない世界に仮説を持ち込んで、思考を中心に確認をしていくしかない。見えないものを見えるようにして、物質的な流れとして世界を再構成していく物理学。その研究者たちには世界がどのように見えているのだろう。

私がしっかりと物理を理解する日はもうしばらくやって来ることがなさそうだけど、というか一生やってこないだろうけれど、彼らが見ている世界の話はいつか聞いてみたい。あ、でもそうしたら、「言葉で説明して」という要求は彼らにとって外国語を強いるようなものなのか。物理の世界は、遠そうだ。

偶然の音楽

偶然の出会いがあった。楽しい出会いだった。

場所は近所のショッピングモールの喫煙所。思い切って購入したズボンのすそ上げが20分もせずに終わるということで、ぼんやりたばこを吸いながらスマホを眺めて時間をやり過ごそうとしていた。

「今スマホっていくらくらいで買えるの?」

左斜め前にいたおじさんがそう言った。喫煙所にいるのは私とおじさんの二人。顔をあげるとこちらを見ているおじさん。独り言では、なさそうだ。

スマホで写真や動画を撮るとどんな感じになるのか気になるというおじさんのために、先日の散歩中に見かけた猫の写真を見せる。「猫好きなの?」と聞かれ、そこからあれよあれよという間に話題は広がり、気がつけばヒッチコックイングリッド・バーグマンに入れ込んでいたという話になり、又吉の『火花』の感想を聞かれ、最後には日本の大学における人文学の今後について話していた。どういう話の流れでそうなったのかは正直よく覚えていない。ただ、なんとなく気分がよくなっていろいろ話したことは覚えている。

そのおじさんは以前、短期間ではあったが映画会社で働いていたとかで、嘘か真か知らないが、某映画批評家とも仕事をしたという話をしながら「あのころは飲み歩くのが仕事みたいなもんだったねー、楽な仕事だったわーあっはっは」と豪快に笑っているおじさんを見ているのは面白かった。

あんな真昼間にショッピングモールの喫煙所でたばこ吸いながらコーラ飲んでるおじさんなんてろくな大人じゃないんだろうが、同じくいい歳して真昼間からユニクロをぶらぶらしていた私が言えたことじゃない。そして、おそらくこの近所に住んでいるのだろうが、きっと今後会うこともないだろう。それでも、どんなろくでもない人であろうと、今後一切かかわることのない人であろうと、今日の30分間に交わした会話が妙に楽しかったことは事実であり、あの30分間が良い時間であったという記憶は今後も大切にされるべきなのだ。もちろん、私の心のなかで、ということだけど。

 

最近なぜか小沢健二にはまり、毎日毎日彼の甘い声で歌われる朗らかなリズムを享受しているせいか、とにかく気持ちが浮ついている。偶然の出会いからあんなに楽しい会話ができてしまったのも、その偶然性とオザケンの波長がなんともよく合っていたからかもしれない。ありがとう、オザケン

ちなみにタイトルの『偶然の音楽』とはポール・オースターの小説のタイトルだが、あらすじを読んでも内容が全然思い出せない。読んだはずなんだけどなあ。おかしいなあ。 読んだ記憶はあるのに内容が全く記憶にない本が多すぎる。

偶然の音楽

偶然の音楽

 

 

フツー

「フツー」が口癖の照ノ富士。フツーとは言ってられない怪我をして、それでも無理して千秋楽まで頑張ったものだから怪我が悪化してしまったそう。大丈夫だろうか。いつから復帰できるかはわからないけど、ゆっくり休んでまた強い照ノ富士の相撲を見せてほしい。

 

本当は秋場所について書きたいことが山ほどあったはずなのに、とにかく余裕がない。とてもじゃないが「フツー」なんて言ってられない。自分を励ますために「フツーだよ、フツー」なんてつぶやいてみても、眼が笑ってないことに気付くだけ。通常営業の状態がどんな感じだったか忘れそうなほど、ここ一か月ほどは焦って焦っててんてこまいである。

しかし焦ったからといって人間効率よく働けるようになるもんでもない。むしろ効率は落ちる。どんどん落ちる。特に頭を使う仕事の場合、焦燥感が冷静な論理的思考を妨害するもんだから、ぼろきれみたいなクオリティのものが量産されるばかりで使えるものはほとんど出来上がらない。効率でいったら焦らずこつこつ進めているときの10分の1以下といったところだろうか。ひどいひどい。

 

そんなとき、きまって思い出すようにしている言葉がある。

「生きていくうえで大切なのは、死なない事と、死にたくなるようなことをしない事」

ポジティブなのかネガティブなのかわからないような格言である。しかも、これが自分のオリジナルの言葉なのか、何かからの引用なのかもわからない。おそらくまだ10代だったころに生まれて初めて精神の危機に遭遇し、その場でひねり出した言葉だったように思うが確証はない。とにかくそのころから、精神的にどん底に落ちた時には、毎回この言葉に助けられている。

つらくてつらくて、焦って、胃も痛くて、冷や汗もかいて、もう何もかも投げ出したくなる時がある。そんな時には、「これを続けてたら死にたくなると思ったら、やめてよい」という自分ルールを設定している。誰かに迷惑がかかるかもしれない。信頼を失うかもしれない。それでも、死にたくなると思ったらやめよう。そう決めている。

大変無責任な考え方のように見えるかもしれないが、こんな風に考えていると「死にたいと思ったらやめよう、まだそこまでではないからもう少しがんばってみよう」という謎の発想の転換がおき、意外とつらかったことも続けられる。なんだかんだ好きで選んだ道だ。楽しめる限り楽しんでみよう、とあきらめがつく。人間の脳みそなんて意外と単純なのだ。

 


TOMOVSKY - 脳(PV) - YouTube

 

毎週のお楽しみであった久保ミツロウ能町みね子オールナイトニッポンGOLDも終わってしまって寂しいが、落ち込んだ時は久保ミツロウが番組内でかけていたこの曲を聴くとよい。

脳みそと神経の「疲労」はダイレクトに精神の状態に影響するので客観視するのはなかなか難しいけれど、鬱々とした気持ちも、泣きたくなるような憂鬱も、結局は自分のへっぽこでお疲れ気味な脳みそのせいである。おなかが痛ければ病院に、肩がこればマッサージに、そういう感覚で、憂鬱になったらストレス解消に励むべきなのだ。

というわけで明日からもがんばって生きていこう。鶴竜優勝おめでとう。